うかとも迷つてゐるうちに、意外に高い笛を響かせながら例の小さな汽車は宿屋の前から輕井澤をさして出て行つてしまつた。それに乘り遲れゝば、午後にもう一度出るのまで待たねばならぬといふ。
 が、草津行きの自動車ならば程なく此處から出るといふことを知つた。そしてまた頭の中に草津を中心に地圖を擴げて、第二の豫定を作ることになつた。
 さうなると急に氣も輕く、窓さきに濡れながらそよいでゐる痩せ/\たコスモスの花も、遙か下に煙つて見ゆる溪の川原も、對岸の霧のなかに見えつ隱れつしてゐる鮮かな紅葉の色も、すべてみな旅らしい心をそゝりたてゝ來た。
 やがて自動車に乘る。かなり危險な山坂を、しかも雨中のぬかるみに馳せ登るのでたび/\膽を冷やさせられたが、それでも次第に山の高みに運ばれて行く氣持は狹くうす暗い車中に居てもよく解つた。ちら/\と見え過ぎて行く紅葉の色は全く滴る樣であつた。
 草津ではこの前一度泊つた事のある一井旅館といふへ入つた。私には二度目の事であつたが、初めて此處へ來たK―君はこの前私が驚いたと同じくこの草津の湯に驚いた。宿に入ると直ぐ、宿の前に在る時間湯から例の佗しい笛の音が鳴り出した。それに續いて聞えて來る湯揉みの音、湯揉みの唄。
 私は彼を誘つてその時間湯の入口に行つた。中には三四十人の浴客がすべて裸體になり幅一尺長さ一間ほどの板を持つて大きな湯槽の四方をとり圍みながら調子を合せて一心に湯を揉んでゐるのである。そして例の湯揉みの唄を唄ふ。先づ一人が唄ひ、唄ひ終ればすべて聲を合せて唄ふ。唄は多く猥雜なものであるが、しかもうたふ聲は眞劍である。全身汗にまみれ、自分の揉む板の先の湯の泡に見入りながら、聲を絞つてうたひ續けるのである。
 時間湯の温度はほゞ沸騰點に近いものであるさうだ。そのために入浴に先立つて約三十分間揉みに揉んで湯を柔らげる。柔らげ終つたと見れば、各浴場ごとに一人づつついてゐる隊長がそれを見て號令を下す。汗みどろになつた浴客は漸く板を置いて、やがて暫くの間各自柄杓を取つて頭に湯を注ぐ。百杯もかぶつた頃、隊長の號令で初めて湯の中へ全身を浸すのである。湯槽には幾つかの列に厚板が並べてあり、人はとりどりにその板にしがみ附きながら隊長の立つ方向に面して息を殺して浸るのである。三十秒が經つ。隊長が一種氣合をかける心持で或る言葉を發する。衆みなこれに應じて「オオウ」と
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