に招ぜられた。
 番人の老爺が唯だ一人居ると私は先に書いたが、實はもう一人、棟續きになつた一室に丁度同じ年頃の老人が住んでゐるのであつた。C―家がこの丸沼に紅鱒の養殖を始めると農務省の水産局からC―家に頼んで其處に一人の技手を派遣し、その養殖状態を視る事になつて、もう何年かたつてゐる。老人はその技手であつたのだ。名をM―氏といひ、桃の樣に尖つた頭には僅かにその下部に丸く輪をなした毛髮を留むるのみで、つる/\に禿げてゐた。
 言葉少なの番人は暫く榾火を焚き立てた後に、私に釣が出來るかと訊いた。大抵釣れるつもりだと答へると、それでは沼で釣つて見ないかと言ふ。實はこちらから頼み度いところだつたので、ほんとに釣つてもいゝかと言ふと、いゝどころではない、晩にさしあげるものがなくて困つてゐたところだからなるだけ澤山釣つて來いといふ。子供の樣に嬉しくなつて早速道具を借り、蚯蚓を掘つて飛び出した。
「ドレ、俺も一疋釣らして貰ふべい。」
 案内人もつゞいた。
 小舟にさをさして、岸寄りの深みの處にゆき、糸をおろした。いつとなく風が出て、日はよく照つてゐるのだが、顏や手足は痛いまでに冷えて來た。沼をめぐつてゐるのは例の黒木の山である。その黒い森の中にところ/″\雪白な樹木の立ち混つてゐるのは白樺の木であるさうだ。風は次第に強く、やがてその黒木の山に薄らかに雲が出て來た。そして驚くほどの速さで山腹を走つてゆく。あとから/\と濃く薄く現はれて來た。空にも生れて太陽を包んでしまつた。
 細かな水皺《みじわ》の立ち渡つた沼の面はたゞ冷やかに輝いて、水の深さ淺さを見ることも出來ぬ。漸く心のせきたつたころ、ぐつと絲が引かれた。驚いて上げてみると一尺ばかりの色どり美しい魚がかゝつて來た。私にとつては生れて初めて見る魚であつたのだ。慌てゝ餌を代へておろすと、またかゝつた。三疋四疋と釣れて來た。
「旦那は上手だ。」
 案内人が側で呟いた。どうしたのか同じところに同じ餌を入れながら彼のには更に魚が寄らぬのであつた。一疋二疋とまた私のには釣れて來た。
「ひとつ俺は場所を變へて見よう。」
 彼は舟から降りて岸つたひに他へ釣つて行つた。
 何しろ寒い。魚のあぎとから離さうとしては鈎を自分の指にさし、餌をさゝうとしてはまた刺した。すつかり指さきが凍えてしまつたのである。あぎとの血と自分の血とで掌が赤くなつた。
 
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