してもう夕方ではあるし、ことによるとこの邊に泊つて居らるゝかも知れぬと立ち寄つて訊いてみた宿屋に偶然にも私が寢てゐたのだといふ。あまりの奇遇に我等は思はず知らずひしと兩手を握り合つた。
十月廿四日
H―君も元氣な青年であつた。昨夜、九時過ぎまで語り合つて、そして提灯をつけて三里ほどの山路を登つて歸つて行つた。今朝は私一人、矢張り朗らかに晴れた日ざしを浴びながら、ゆつくりと歩いて沼田町まで歸つて來た。打合せておいた通り、U―君が青池屋といふ宿屋で待つてゐた。そして昨夜の奇遇を聞いて彼も驚いた。彼はM―と初對面であつたと同じくH―をもまだ知らないのである。
夜、宿屋で歌會が開かれた。二三日前の夜訪ねて來た人たちを中心とした土地の文藝愛好家達で、歌會とは云つても專門に歌を作るといふ人々ではなかつた。みな相當の年輩の人たちで、私は彼等から土地の話を面白く聞く事が出來た。そして思はず酒をも過して閉會したのは午前一時であつた。法師で會つたK―君も夜更けて其處からやつて來た。この人たちは九里や十里の山路を歩くのを、ホンの隣家に行く氣でゐるらしい。
十月廿五日
昨夜の會の人達が町はづれまで送つて來て呉れた。U―、K―兩君だけは、もう少し歩きませうと更に半道ほど送つて來た。其處で別れかねてまた二里ほど歩いた。收穫前の忙しさを思つて、農家であるU―君をば其處から強ひて歸らせたが、K―君はいつそ此處まで來た事ゆゑ老神まで參りませうと、終《つひ》に今夜の泊りの場所まで一緒に行く事になつた。宿屋の下駄を穿き、帽子もかぶらぬまゝの姿である。
路はずつと片品川の岸に沿うた。これは實は舊道であるのださうだが、故《ことさ》らに私はこれを選んだのであつた。さうして樂しんで來た片品川峽谷の眺めは矢張り私を落膽せしめなかつた。ことに岩室といふあたりから佳くなつた。山が深いため、紅葉はやゝ過ぎてゐたが、なほ到る處にその名殘を留めてしかも岩の露はれた嶮しい山、いたゞきかけて煙り渡つた落葉の森、それらの山の次第に迫り合つた深い底には必ず一つの溪が流れて瀧となり淵となり、やがてそれがまた隨所に落ち合つては眞白な瀬をなしてゐるのである。歩一歩と醉つた氣持になつた私は、歩みつ憩ひつ幾つかの歌を手帳に書きつけた。
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きりぎしに通へる路をわが行けば天つ日は照る高き空より
路かよふ崖の
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