弱だッ」。
「参謀は神経が鈍《にぶ》すぎるッ」
「いいや、君は……」
「鈍物参謀《どんぶつさんぼう》」
「やめいッ!」
と軍団長が大喝《たいかつ》した。
「はッ」と二人は直立不動の姿勢をとった。
「もうやめいッ、論議は無駄だ。喋っている遑《いとま》があったら、なぜあの蠅を手にとって検《しら》べんのじゃ」
「はッ」
二人は顔を見合わせた。誰が蠅を検べにゆくのがよいか――と考えた。その途端《とたん》に、フョードルも、中尉もハッと顔色をかえて、胸をおさえた。軍団長もヨロヨロとよろめきながら、右手で心臓を圧《おさ》えた。そればかりではない。司令部広間にいた幕僚も通信手も伝令も、皆が胸を圧えた。そして次の瞬間には立てて並べてあった本がバタリバタリと倒れるように、一同はつぎつぎに床の上に昏倒《こんとう》した。間もなく、この大広間は、世界の終りが来たかのように、一人のこらず死に絶えた。まことに急激な、そして不可解な死に様《よう》だった。
たった一つ、依然として活躍しているものがあった。それは壁にとまっていた一匹の蠅だった。その蠅の小さい一翅《いっし》は、どうしたものか、まったく眼に見えなかった。それは翅が無いのではなく、翅が非常に速い振動をしていたからである。その翅の特異な振動から、殺人音波が室内にふりまかれているのであった。白軍の新兵器、殺人音波は、実にこの蠅から放射されていたのである。
蠅は死にそうでいて、中々元気であった。人間が死んで、蠅が死なないのはおかしいが、もし手にとって、顕微鏡を持つまでもなく肉眼でよく見るならば、この蠅が唯《ただ》の蠅ではなく、ロボット蠅《ばえ》であることを発見したであろう。
この精巧なロボット蠅は、弁当屋の小僧が持って来て、壁にとりつけていったものだった。蠅が止まっていると格別気にもしなかった間にあの小僧に化けたスパイは遠くに逃げ失せた。その頃、一つの電波が白軍の陣営から送られ、それであのロボット蠅の翅は忽《たちま》ち振動を始めたのだ。その翅からは戦慄《せんりつ》すべき殺人音波が発射され、室内の一同を鏖殺《みなごろ》しというわけだった。軍団長のいうとおり、もっと早く蠅を手にとって検べていたら、こんな悲惨な結果にはならなかったろう。
ロボット蠅は、それから後も、続々《ぞくぞく》と偉功《いこう》を樹《た》てた。
第六話 雨の日の蠅
(妻が失踪《しっそう》してから、もう七日になる)
彼は相変《あいかわ》らず無気力な瞳を壁の方に向けて、待つべからざるものを待っていた。腹は減ったというよりも、もう減りすぎてしまった感じである。胃袋は梅干大《うめぼしだい》に縮小していることであろう。
妻を探しにゆくなんて、彼には、やりとげられることではなかった。外はどこまでも続いた密林、また密林である。人間といえば彼と妻ときりしか住んでいない。食いつめて、虐《しいた》げられて、ねじけきって辿《たど》りついたこの密林の中の荒れ果てた一軒家だった。主人のない家とみて今日まで寝泊りしているのだった。
失踪した妻を探しにゆく気力もなかった。それほど大事な妻でもなかった。結局一人になった方が倖《しあわせ》かもしれない。しかし、倖なんておよそおかしなものである。腹の減ったときに蜃気楼《しんきろう》を見るようなもので、なんの足しになるものかと思った。
陽がうっすらとさしていたのが、いつの間にやら、だんだんと吸いとられるように消えていった。そしてポツポツ雨が降ってきた。密林の雨は騒々《そうぞう》しい。木の葉がパリパリと鳴った。
丸太ン棒を輪切りにして、その上に板をうちつけた腰掛の下から、一陣の風がサッと吹きだした。床に大きな窓が明いているのであった。とたんにどッと降りだした篠《しの》をつくような雨は、風のために横なぐりに落ちて、窓枠《まどわく》をピシリピシリと叩いた。密林がこの小屋もろとも、ジリジリと流れ出すのではないかと思われた。
流れ出してもよい。すべて天意のままにと彼は思った。
雨は、ひとしきり降ると、やがて見る見る勢《いきおい》を失っていった。そしてあたりはだんだん明るさが恢復《かいふく》していった。風もどこかへ行ってしまった。
やがてまたホンノリと、薄陽《うすび》がさしてきた。彼はまだ身体一つ動かさず、破れた壁を見詰《みつ》めていた。雨が上《あが》ったら、どこからか妻がキイキイ声をあげながら、小屋へ駈けこんでくるように感じられた。だがそれは、いつもの期待と同じように、ガラガラと崩《くず》れ落ちていった。いつまでたってもキイキイ声はしなかった。
壁を見詰めている彼の瞳の中に、なんだかこう新しい気力《きりょく》が浮んできたように見えた。壁に、どうしたものかたくさんの蠅が止まっている。一匹、二匹、三匹と数えていって、十匹まで数えたが、それからあとは嫌《いや》になった。十匹以上、まだワンワンと居た。
(どうして蠅が、こう沢山居るのだろう)
彼はようやく一つの手頃な問題にとりついたような気がした。別に解《と》けなくともよい。気に入る間だけ、舌の上に載《の》せた飴玉《あめだま》のように、あっちへ転がし、こっちへ転がしていればいいのだ。さて、蠅がどうしてこんなに止まっているのか。
(ウン、そうだ……)
そうだ。蠅はさっきまで一匹も壁の上に止まっていたように思われない。蠅が急に壁の上に殖《ふ》えたのは、先刻《さっき》の豪雨《ごうう》があってから、こっちのことだ。
(そうだ。雨が降って、それで蠅が殖えたのだ。どうして殖えたのだ?)
窓には硝子板《ガラスいた》なんてものが一枚も入っていなかった。板で作った戸はあったけれど、閉めてなかった。この窓から、あの蠅が飛びこんできたのに違いない。しかし飛びこんでくるとしても、この夥《おびただ》しい一群の蠅が押しよせるなんて、彼がこの小屋に住むようになった一年この方、いままでに無いことだった。
(なぜ、今日に限って、この夥しい蠅の一群が飛びこんで来たのだ。どこから、この夥しい蠅が来たのだ)
彼の眼は次第に険悪《けんあく》の色を濃くしていった。
どこから来たのだ、この夥しい蠅群は!
「ああッ。――」
と彼は叫んだ。
「この蠅が来るためには、この家の外に、なにか蠅が沢山たかっている物体があるのだ。雨が降って――そして蠅が叩かれ、あわててこの窓から飛びこんできたのだ。そうだそうだ、それで謎は解ける!」
彼は爛々《らんらん》たる眼で見入《みい》った。
(だが、その蠅の夥《おびただ》しくたかっている物体というのは、一体なにものだったろう)
彼は急に落着かぬ様子になって、ブルブルと身体を慄《ふる》わした。両眼はカッと開き、われとわが頭のあたりにワナワナとふるえる両手を搦《から》みつけた。
「ああッ。――ああッ、あれだッ。あれだッ」
彼は腰掛から急に立ち上った。釘《くぎ》をうったように棒立ちになった。ひどい痙攣《けいれん》が、彼の頬に匍《は》いのぼった。
「妻だ。妻の死体だッ」彼の声は醜《みにく》く皺枯《しわが》れていた。「妻の死体が、すぐそこの窓の下に埋《う》まっているのだ。それがもう腐って、ドンドン崩れて、その上に蠅がいっぱいたかっているのだ。……先刻の雨に叩かれて、そこにいる蠅の一群が、窓から逃げこんできたのだ。ああ、妻の死体を嘗《な》めた蠅が、そこの壁の上に止まっている!」
彼は後退《あとずさ》りをすると、背中を壁にドスンとぶつけた。
「……で、その妻は、一体誰が殺し、誰がそこに埋めたのだろうか」
彼は土の下で腐乱《ふらん》しきった妻の死体を想像した。いまの雨に、その半身《はんしん》が流れ出されて、土の上に出ているかもしれないと思った。
「殺したのは誰だ。この無人境《むじんきょう》で、妻を殺したのは誰だッ」
そのとき、入口の扉《ドア》がコツコツと鳴った。誰かがノックをしているのだ。
「あワワ……」
彼は身を翻《ひるがえ》すと、部屋の隅に小さくなった。まるで蜘蛛《くも》の子が逃げこんだように。
コツ、コツ、コツ。
又もや気味の悪い叩音《ノック》が聞える。
彼は死んだようになって、息をころした。
そのとき扉の外で、ガチャリと音がした。鍵の外れるような音であった。そしてイキナリ、重い扉が外に開いた。その外には詰襟《つめえり》の制服に厳《いかめ》しい制帽を被った巨大漢《きょだいかん》と、もう一人背広を着た雑誌記者らしいのとが肩を並べて立っていた。
「これがその男です」と、制服の監視人が部屋の中の彼を指して云った。「妻を殺して、窓の外にその死体を埋めてあるように思っている患者です。この男は何でも前は探偵小説家だったそうで、窓から蠅が入ってくると、それから筋を考えるように次から次へと、先を考えてゆくのです。そして最後に、自分が夢遊病者《むゆうびょうしゃ》であって、妻を殺してしまったというところまで考えると、それで一段落《いちだんらく》になるのです。そのときは、いかにも小説の筋が出来たというように、大はしゃぎに跳《は》ねまわるのです。……強暴性の精神病患者ですから、この部屋はこれまでに……」
第七話 蠅に喰われる
机の上の、小さな蒸発皿《じょうはつざら》の上に、親子の蠅が止まっている。まるで死んだようになって、動かない。この二匹の親子の蠅は、私の垂《た》らしてやった僅《わず》かばかりの蜂蜜に、じッと取付いて離れなくなっているのだ。
そこで私は、戸棚の中から、二本の小さい壜をとりだした。一方には赤いレッテルが貼ってあり、もう一つには青いレッテルが貼ってあった。この壜の中には、極めて貴重な秘薬《ひやく》が入っているのだった。赤レッテルの方には生長液《せいちょうえき》が入って居り、青レッテルの方には「縮小液《しゅくしょうえき》」が入っていた。これは或るところから手に入れた強烈な新薬である。私はこの秘薬をつかって、これからちょっとした実験をして見ようと思っているのだ。
私は赤レッテルの壜の栓を抜くと、妻楊子《つまようじ》の先をソッと差し入れた。しばらくして出してみると、その楊子の尖端《せんたん》に、なんだか赤い液体が玉のようについていた。それが生長液の一滴《いってき》なのであった。
私はその妻楊子の尖端を、蒸発皿の方へ動かした。そして親蠅《おやばえ》がとりついている蜂蜜の上に、生長液をポトンと垂《た》らした。それから息を殺して、私は親蠅の姿を見守った。
ブルブルブルと、蠅は翅《はね》をゆり動かした。
「うふーン」
と私は溜息をついた。蠅はしきりに腹のあたりを波うたせている。不図《ふと》隣りの仔蠅の方に眼をうつした私は、どンと胸をつかれたように思った。
「呀《あ》ッ。大きくなっている!」
仔蠅の身体に較べて、親蠅はもう七八倍の大きさになっているのだ。そして尚《なお》もしきりに膨《ふく》れてゆくようであった。
「ほほう。蠅が生長してゆくぞ。なんという素晴らしい薬の効目《ききめ》だ」
蠅は薬がだんだん利いて来たのであろうか。見る見る大きくなっていった。三十秒後には懐中時計ほどの大きさになった。それから更に三十秒のちには、亀《かめ》の子束子《こだわし》ほどに膨《ふく》れた。私はすこし気味が悪くなった。
それでも蠅の生長は停まらなかった。亀の子束子ほどの蠅が、草履《ぞうり》ほどの大きさになり、やがてラグビーのフットポールほどの大きさになった。電球ぐらいもある両眼《りょうがん》はギラギラと輝き、おそろしい羽ばたきの音が、私の頬を強く打った。それでもまだ蠅はグングンと大きくなる。こんなになると、蠅の生長してゆくのがハッキリ目に見えた。私はすっかり恐《おそ》ろしくなった。
蠅の身体が、やがて鷲《わし》ぐらいの大きさになるのは、間のないことであろうと思われた。
(これはもう猶予《ゆうよ》すべきときではない。早く叩き殺さねば危い!)
なにか適当の武器もがなと思った私は、慌《あわ》てて身辺をふりかえったが、そこにはバット一本転がっていなかった
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