いか。
 私はこの頃人造宇宙線の実験に没頭《ぼっとう》しているが、いつもこの種の不安を忘れかねている次第《しだい》である。人造が出来るようになってからは宇宙線の流れる数は急激に増加した。ことに私どもの研究室の中では、宇宙線が霞《かすみ》のように棚曳《たなび》いている。恐らく街頭で検出できる宇宙線の何百倍何千倍に達していることだろうと思う。私はこうして実験を続けていながらも、何か駭《おどろ》くべき異変がこの室内に現われはしまいかと思って、ときどき背中から水を浴びせられたように感ずるのだ。そんなことが度重《たびかさ》なったせいか、今日などは朝からなんだか胸がムカムカしてたまらないのである。
 読者は、私が科学者である癖《くせ》に、何の術策《じゅつさく》を施《ほどこ》すこともなく、ただ意味なく狼狽《ろうばい》と恐怖とに襲《おそ》われているように思うであろうが、私とても科学者である。愚《おろ》かしき狼狽のみに止《とど》まっているわけではない。すなわち、ここにある硝子壜《ガラスびん》の中をちょっと覗《のぞ》いてみるがいい。この中に入っているものは何であるか御存知であろう。これは蠅である。
 この蠅は、最初壜に入れたときは二匹であったが、特別の装置に入れて置くために、だんだん子を孵《かえ》して、いまではこのとおり二十四五匹にも達している。この蠅の一群を、私は毎日毎日、丹念に検べているのだ。しかし私はいつも失望と安堵《あんど》とを迎えるのが例だった。なぜならば、蠅どもは別に一向異変をあらわさなかったから……。
 だが、今日という今日は、待ちに待った戦慄《せんりつ》に迎えられたのだ。それは、この壜の中に一匹の怪しい子蠅を発見したからである。その子蠅は、なんという恐ろしい恰好をしていたことであろうか。それははじめは気がつかなかったが、すこし丈夫になって、壜の上の方に匍《は》いあがってきたところを見付けたのであるが、一つの胴体に、二つの頭をもっていたのだ! 言わば双つ頭の蠅である。こんな不思議な蠅が、いまだかつて私共の目に止まったことがあろうか。いやいやそんな怪しげなものは見たことがなかった。おそらく、どこの国の標本室へいっても、二つ頭の蠅などは発見されないであろう。ことに目の前に蠅の入った壜を置いてあって、その中にこのような怪しい畸形の子蠅を発見出来るなどいうことは、著《いちじる》しい特別の原因がなくては起り得るものではない。――その原因を、わが研究室の宇宙線に帰《き》することは、極《きわ》めて自然であると思う。無論読者においても賛成せられることであろう。……
     *
 ――さて、前段の文章は、途中で切れてしまったが、まったく申訳がない。実は急に胸元《むなもと》が悪くなって、嘔吐《おうと》を催《もよお》したのだ。そして軽い脳貧血にさえ襲われた。私は皆の薦《すす》めで室を後にし、別室のベッドに寝ていたのだ。それからかれこれ三時間は経った。やっと気分もすこし直って来たので、起き上ろうかと思っていると、其所《そこ》へ友人が呼んでくれた医師が診察に来てくれた。
 その診察の結果をこれからお話しようと思うのであるが、読者は信じてくれるかどうか。多分信じて貰えまいと思う。といってこれが話さずにいられようか。
 いま私は起き上って、蠅の入った壜を手にとって見ている。あれから三四時間のちのことであるが、二つ頭の蠅が、俄然《がぜん》五匹に殖えている。異変は続々と起っているのだ。そして生物学的にみて、何という繁殖《はんしょく》の凄《すさま》じさであろうか。何という怪奇な新生児であろうか。
 私がもし生物学者であったとしたら、蠅が卵を生み始めた頃直ぐに、重大なる事柄に気がつかねばならなかったのである。随《したが》って、近頃の私自身の気分の悪さについても、早速《さっそく》思いあたらねばならなかったのであるが、幸か不幸か、私には蠅の雌雄《しゆう》を識別《しきべつ》する知識がなかったのである。
 実は私は――理学博士|加宮久夫《かのみやひさお》は、本日医師の診察をうけたところによると、奇怪にも妊娠しているというのである。男性が妊娠する――なんて、誰も本当にしないであろうが、これは偽《いつわ》りのない事実である。ああなんという忌《いま》わしき、また恐ろしいことではないか。男性にして妊娠したというのは、私が最初だったであろう。なぜ妊娠したか。その答えは簡単である。――この研究室に棚曳《たなび》いている宇宙線が私の生理状態を変えてしまって、そして妊娠という現象が男性の上に来たのだ。
 私が生物学者だったら、この壜の中の蠅が卵を生んでいるときに、既に怪異に気がつくべきだった。何となれば、その卵を生んでいる蠅は、いずれも皆|雌《めす》ではなく、実に雄《おす》だったのである。そしてその雄から、あの畸形な子蠅が生れてきたのだ。
 ああ、私は果して、五体が満足に揃った嬰児《えいじ》を生むであろうか。それとも……。


   第五話 ロボット蠅


 赤軍の陣営では、軍団長《ぐんだんちょう》イワノウィッチが本営から帰ってくると、司令部の広間へ、急遽《きゅうきょ》幕僚《ばくりょう》の参集《さんしゅう》を命じた。
「実に容易ならぬ密報をうけたのじゃ」と軍団長は青白い面に深い心痛《しんつう》の溝《みぞ》を彫《ほ》りこんで一同を見廻した。「白軍には駭《おどろ》くべき多数の新兵器が配布されているそうな。その新兵器は、いかなる種類のものか、ハッキリしないのであるが、中に一つ探りあてたのは、殺人音波《さつじんおんぱ》に関するものだ。耳に聞えない音――その音が、一瞬間に人間の生命を断ってしまうという。とにかく一同は、この新兵器の潜入《せんにゅう》について、極度《きょくど》の注意を払って貰わにゃならぬ。そして一台でも早く見つけたが勝じゃ。一秒間発見が早ければ千人の兵員を救う。一秒間発見が遅ければ、千人の兵員を喪《うしな》う。各自は注意を払って、新兵器の潜入を発見せねばならぬ」
 並居《なみい》る幕僚は、思わずハッと顔色を変えた。そして銘々《めいめい》に眼《まなこ》をギョロつかせて、室内を見廻した。もしやそこに、見馴《みな》れない新兵器がいつの間にやら搬《はこ》びこまれていはしまいかと思って……。
「ややッ、ここに変なものがあるぞ」
 幕僚の一人、マレウスキー中尉が突然叫んだ。
「ナナなんだって?」
 一同は長靴をガタガタ床にぶっつけながら中尉の方を見た。彼は室の隅《すみ》の卓子《テーブル》の上に、手のついた真黒い四角な箱を発見したのだ。
「こッこれだッ。怪しいのは……」
「なんだ其の箱は」
「爆弾が仕掛けてあるのじゃないかナ」
「イヤ短波の機械で、われ等の喋《しゃべ》っていることが、そいつをとおして、真直《まっすぐ》に敵の本営へ聞えているのじゃないか」
「それとも、殺人音波が出てくる仕掛けがあるのじゃないか」
 一同は喚《わめ》きあって、その四角の黒函《くろばこ》をグルリと取り巻いた。
「あッはッはッ」と人垣のうしろの方から、無遠慮《ぶえんりょ》な爆笑の声がひびいた。フョードル参謀の声で。
「あッはッはッ。それア弁当屋《べんとうや》の出前持《でまえもち》の函なんだ。多分お昼に食った俺《おれ》の皿が入っているだろう」
「なんだって、弁当の空《から》か?」
「どうして、それがこんなところにあるのか」
「イヤ、さっき弁当屋の小僧が来た筈なんだが、持ってゆくのを忘れたのじゃあるまいかのウ」フョードル参謀は云った。
「忘れてゆくとは可笑《おか》しい、中を検《しら》べてみろ」
「早くやれ、早くやれッ」
「よォし」とフョードル参謀は進み出た、「じゃ明《あ》けるぞオ」
 一同の顔はサッと緊張した。軍団長イワノウィッチは、大刀《だいとう》を立《たて》て反身《そりみ》になって、この際の威厳《いげん》を保《たも》とうと努力した。
「よォし、明けろッ」
「明けるぞオ」
 フョードルは、黒函《くろばこ》の蓋に手をかけると、音のせぬようにソッと外《はず》しにかかった。一同の心臓は大きく鼓動をうって、停りそうになった。
「……?」
 蓋はパクリと外れた。
「なアんだ」
 見ると、函の中には、白い料理の皿が二三枚|重《かさ》なっているばかりだった。皿の上には食いのこされた豚の脂肉《あぶらにく》が散らばっていて、蠅が二匹、じッと止《と》まっていた。
「ぷーッ。ずいぶん汚い」
「見ないがよかった。新兵器だなんていうものだから、つい見ちまった」
 一同は興《きょう》ざめ顔のうちに、まアよかったという安堵《あんど》の色を浮べた。
 そのとき入口の扉《ドア》が開いて、少年がズカズカと入ってきた。
「おや、貴様は何者かッ」
「誰の許しを得て入って来たか」
 将校たちに詰めよられた少年は、眼をグルグル廻すばかりで、頓《とみ》に返辞も出せなかった。
「オイ、許してやれよ」フョードル参謀が声をかけた、「いくら白軍《はくぐん》の新兵器が恐ろしいといったって、あまり狼狽《ろうばい》しすぎるのはよくない……」
「なにッ」
「そりゃ、弁当屋の小僧だよ」
「弁当屋の小僧にしても……」
「オイ小僧、ブローニングで脅《おどか》されないうちに、早く帰れよ」
 少年はフョードルの言葉が呑みこめたものか、肯《うなず》いて黒い函をとると、重そうに手に下げ、パッと室外に走り出した。
「なーんだ、本当の弁当屋の小僧か」
「いや小僧に化けて、白軍の密偵が潜入して来るかも知れないのだ」とマレウスキー中尉は神経を尖《とが》らした。
「油断はせぬのがよい。しかし卑怯《ひきょう》であっては、戦争は負けじゃ」
 と一伍一什《いちぶしじゅう》を見ていた軍団長はうまいことを述《の》べて、大きな椅子のうちに始めて腰を下ろした。
「注意をすることが、卑怯であるとは思いませぬ」とマレウスキー中尉は引込んでいなかった。「怪しいことがあれば、そいつは何処までも注意しなきゃいけません。たとえば……」
「たとえば何だという?」とフョードルが憎々《にくにく》しげに中尉を睨《にら》みつけた。
「たとえば、ああ、そこをごらんなさい。一匹の蠅が壁の上に止まっている。そいつを怪しいことはないかどうかと一応疑ってみるのがわれわれの任務ではないか」
「蠅が一匹、壁に止まっているって? フン、あれは……あれは先刻《さっき》弁当屋の小僧が持って来た弁当の函から逃げた蠅一匹じゃないか。すこしも怪しくない」
「それだけのことでは、怪しくないという証明にはならない。それは蠅があの黒い函の中から逃げだせるという可能性について論及《ろんきゅう》したに過ぎない。あの蠅を捕獲《ほかく》して、六本の脚と一個の口吻《こうふん》とに異物《いぶつ》が附着しているかいないかを、顕微鏡の下に調べる。もし何物か附著していることを発見したらば、それを化学分析する。その結果があの黒函の中の内容である豚料理の一部分であればいいけれど、それが違っているか、或いは全然附着物が無いときには、どういうことになるか。あの蠅は弁当屋の出前の函にいたものではないという証明ができる。さアそうなれば、あの蠅は一体どこからやって来たのだろうか。もしやそれは一種の新兵器ではないかと……」
「あッはッはッはッ」と参謀フョードルは腹を抱《かか》えて笑い出した。「君の説はよく解った。そういう種類の説は昔から非常に簡単な名称が与えられているのだ。曰く、懐疑《かいぎ》主義とネ」
「イヤ参謀、それは粗笨《そほん》な考え方だと思う。一体この室に蠅などが止まっているというのが極《きわ》めて不思議なことではないか。ここは軍団長の居らるる室だ。ことに季節は秋だ。蠅がいるなんて、わが国では珍らしい現象だ」
「弁当屋が持って来たのなら、怪しくはあるまいが……」
「ことに新兵器なるものは、敵がまったく思いもかけなかったような性能と怪奇な外観をもつのを佳《よし》とする。もし蠅の形に似せた新兵器があったとしたら……。そしてあの弁当屋の小僧が実は白軍のスパイだったとしたら……」
「君は神経衰
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