日には、その病人の息の根が止まっていた。では、あの蠅の持っている黴菌《ばいきん》というのが、あの奇病を起させたのじゃないですか」
医学士は黙っていた。その答えは彼の領分《りょうぶん》ではなかったから。
大江山捜査課長も黙っていた。目の前に現われた事実が、帆村の予言したところと、あまりによく一致して来たので。
「さあ大江山さん」と帆村は捜査課長を促《うなが》した。「これから、あの蠅を採取した地区を探してみるのです。もっと大胆な推定を下すならば、犯人は沢山の蠅を飼育し、その一匹一匹に病原菌を持たせて、市民に移していったのです。犯人は、あの奇病の流行した地区の幾何学的《きかがくてき》中心附近に必ず住んでいるに違いありません。さあ行きましょう。行って、その間接の殺人魔を捉《とら》えるのです」
二人は病理学研究室を飛び出すと、すぐに自動車を拾った。いわゆる奇病発生地区の幾何学的中心地が、帆村の手で苦もなく探し出された。
二人が、チンドン屋の寅太郎《とらたろう》という、いつも手甲《てこう》脚絆《きゃはん》に大石良雄《おおいしよしお》を気取って歩く男を捉えたのは、それから間もなくの出来ごとだった。その寅太郎の遂《つい》に自白したところによると、彼こそ正《まさ》しくその犯人だった。極左の一人として残る医学士の彼が、蠅に黴菌を背負わして、この恐ろしい犯行を続けていたことが明かになった。ねじけた彼にとって、市民をやっつけることは、またとない悦《よろこ》びだったのだ。彼が丹精《たんせい》して飼育したその毒蠅は、チンドンと鳴らして歩くその太鼓《たいこ》の中にウジャウジャ発見された。彼が右手にもった桴《ばち》で太鼓の皮をドーンと叩くと、胴の上に設けられてある小さい孔《あな》から、蠅が一匹ずつ、外へ飛び出す仕掛けになっていた。
彼の検挙によって、例の奇病が跡を絶ったのは云うまでもない。
第三話 動かぬ蠅
好《す》き者《もの》の目賀野千吉《めがのせんきち》は、或る秘密の映画観賞会員の一人だった。
一体そうした秘密映画というものは、一と通りの仕草《しぐさ》を撮ってしまうと、あとは千辺一律《せんぺんいちりつ》で、一向《いっこう》新鮮な面白味をもたらすものではない。そこで会主《かいしゅ》は、会員の減少をおそれて一つの計画を樹《た》てた。それは会員たちから、いろいろの注文を聞き、それに従って、映画の新鮮な味を失うまいと心|懸《が》けた。果してそれは大成功だった。会主の狭い頭脳から出るものよりも、同好者の天才的頭脳を沢山に借りあつめることが、いかに素晴らしい映画を後から後へと作りあげたか、云うまでもない。目賀野千吉は、その方面での、第一功労者にあげねばならない人物だった。
会は大変|儲《もう》かった。会は彼の功労を非常に多《た》とし、遂《つい》に千五百円を投げ出して、新邸宅を建てて彼に贈った。
「ほほう。あんな方面の労務|出資《しゅっし》が、こんなに明るい新築の邸宅《ていたく》になるなんて、世の中は面白いものだナ」
彼は満足そうに独言《ひとりごと》を云って、白い壁にめぐらされた洋風間に持ちこんだベッドの上に長々と伸びた。真白な天井《てんじょう》だった。新しいというのは、まことに気持がいいものだ。蠅が一匹止まっている。それさえ何となく、ホーム・スウィート・ホームで、明朗さを与えるもののように思われた。蠅のやつも、恐らく伸び伸びと、この麗《うらら》かな部屋に逆様《さかさま》になって睡《ねむ》っていることであろう。
彼はうららかな生活をしみじみと味わって、幸福感に浸《ひた》った。いままでの変態的《へんたいてき》な気持がだんだん取れてくるように感じた。もうあの夜の映画観賞会には、なるべく出ないようにしようとさえ考えた。明るい生活がだんだんと、彼の心を正しい道にひき戻していったのだった。
しかしそれと共に、彼はなんだか非常に頼《たよ》りなさを感じていった。淋《さび》しさというものかも知れなかった。血の通《かよ》っている身体でありながら、まるで鉱石《こうせき》で作った身体をもっているような気がして来た。なにが物足りないのだ。なにが淋しいのだ。
「そうだ、妻君《さいくん》を貰おう!」
彼は、このスウィート・ホームに欠けている第一番のものに、よくも今まで気がつかなかったものだと感心したくらいだった。
目賀野千吉は、彼の決心を早速会主に伝達した。
「ああ、お嫁さんなの……」
と会主は大きく肯《うなず》いてみせた。
「いいのがあるワ。あたしの遠縁《とおえん》の娘《こ》だけれど。丸ぽちゃで、色が白くって、そりゃ綺麗な子よ」
「へえ! それを僕にくれますか」
「まあ、くれるなんて。貰っていただくんだわ。ほほほほ」
と会主は吃驚《びっくり》するような大きな顔で笑った。
そんなわけで、彼は間もなく、新邸《しんてい》の中にまたもう一つ新しく素晴らしいものを加えた。それは生々《なまなま》しい新妻《にいづま》であることは云うまでもあるまい。
新世帯というのを持ったものは誰でも覚えがあるように、三ヶ月というものは夢のように過ぎた。妻君は一向子供を生みそうもなかった代りに、ますます美しくなっていった。やがて一年の歳月が流れた。その間《かん》、彼はあらゆる角度から、妻君という女を味わってしまった。そのあとに来たものは、かねて唱《とな》えられている窒息《ちっそく》しそうな倦怠《けんたい》だった。彼の過去の精神|酷使《こくし》が、倦怠期を迎えるに至る期限をたいへん縮めたことは無論である。彼はひたすら、刺戟《しげき》に乾いた。なにか、彼を昂奮させてくれるものはないか。彼は妻君が寝台の上に睡ってしまった後も、一人で安楽椅子《あんらくいす》によりながら、考えこんだ。白い天井を見上げると、黒い蠅が一匹、絵に書いたように止まっていた。それをボンヤリ眺《なが》ているうちに、彼は思いがけないことに気がついた。
「あの蠅というやつは、もう先《せん》にも、あすこに止まっていたではないか。それが今も尚《なお》、あすこに止まっている。あれは、先の蠅と同じ蠅かしら。違うかしら。もし同じ蠅だとしたら生きているのか死んでいるのか」
彼は不図《ふと》そんなことを思った。しかしそれだけでは、一向彼を昂奮に導くには足《た》りなかった。
「なにものか、自分を昂奮《こうふん》させてくれるものよ、出て来い!」
彼はなおも執拗《しつよう》に、心の中で叫んだ。
「そうだ。あれしかない。古い手だが、暫く見ない。あれをまたすこし見れば、なんとかすこしは刺戟があるだろう」
彼は昔の秘密の映画観賞会のことを思い出したのだった。
(三ヶ月ぶりだ。……)
そう思いながら、彼は或るブローカーから切符を買うと、秘密の映画観賞会のある会合へ、こっそりと忍びこんだ。会主にも表向き会わないで、昂奮だけをソッと一人で持ってかえりたいと思ったからである。
映画はスクリーンの上に、羞らいを捨てて、妖《あや》しく躍りだした。大勢の会員たちが自然に発する気味のわるい満悦《まんえつ》の声が、ひどく耳ざわりだった。しかし間もなく、心臓をギュッと握られたときの駭《おどろ》きに譬《たと》えたいものが彼を待っていようなどとは、気がつかなかった。ああ、突然の駭き。それはどこからうつしたものか、彼と妻君との戯《たわむ》れが長尺物《ちょうじゃくもの》になって、スクリーンの上にうつし出されたではないか!
「呀《あ》ッ。――」
と彼は一言《ひとこと》叫んだなりに、呆然《ぼうぜん》としてしまった。
(何故だろう。何故だろう)
彼は憤《いきどお》るよりも前に、まず駭《おどろ》き、羞《はじ》らい、懼《おそ》れ、転がるように会場から脱《ぬ》け出《い》でた。そして自分の部屋に帰って来て、安楽椅子の上に身を抛《な》げだした。そしてやっとすこし気を取り直したのだった。
(何故だろう。あの怪映画は、自分たちの楽しい遊戯を上の方から見下ろすように撮ってあった。一体どこから撮ったものだろう。撮るといって、どこからも撮れるようなものはないのに……)
と、彼はいぶかしげに、頭の上を見上げた。そこには、依然として真新しい白壁の天井があるっきりだった。別にどこという窓も明いている風に見えなかった。ただ一つ、気になるといえば気になるのは、前から相《あい》も変らず、同じ場所にポツンと止まっている黒い大きい蠅が一匹であった。
「どうしてもあの蠅だ。なぜあの蠅だか知らないが、あれより外《ほか》に怪しい材料が見当らないのだ!」
そう叫んだ彼は、セオリーを超越《ちょうえつ》して、梯子《はしご》を持ってきた。それから危い腰付でそれに上ると、天井へ手を伸ばした。蠅は何の苦もなくたちまち彼の指先に、捕《とら》えられた。しかしなんだか手触《てざわ》りがガサガサであって、生きている蠅のようでなかった。
「おや。――」
彼は掌《てのひら》を上に蠅を転がして、仔細《しさい》に看《み》た。ああ、なんということであろう。それは本当の蠅ではなかった。薄い黒紗《こくしゃ》で作った作り物の蠅だった。天井にへばりついていたために、下からは本当の蠅としか見えなかったのだ。だが誰が天井にへばりついている一匹の蠅を、真物《ほんもの》か偽物《にせもの》かと疑うものがあろうか。
(誰が、なんの目的で、こんな偽蠅《にせばえ》を天井に止まらせていったのだろう!)
彼は再び天井を仰《あお》いでみた。
「おや、まだ変なものがある!」
よく見ると、それは蠅の止まっていたと同じ場所に明いている小さな孔《あな》だった。どうして孔が明《あ》いているのだろう!
その瞬間、彼はハッと気がついた。
「畜生!」
そう叫ぶと彼は、押入の扉《ドア》を荒々しく左右に開いた。そして天井裏へ潜《くぐ》りこんだ。そこで彼は不可解だった謎をとくことが出来た。あの孔の奥には、巧妙な映画の撮影機が隠されていた。目賀野千吉と新夫人との生活はあの孔《あな》からすっかり撮影され、彼が入った秘密映画会に映写されていたのであった。会主が家をくれたのも、その映画をうつさんがために外《ほか》ならなかった。なんとなれば、およそ彼ほどの好き者は、会主の知っている範囲では見当らなかったのだ。会主は彼が本気で実演してくれれば、どんなにか会員を喜ばせる映画が出来るか、それを知っていたのだ。むろん彼女は、新宅の建築費の十倍に近い金を既にあの映画によって儲《もう》けていたのだった。
蠅は? 蠅は単に小さい孔を隠す楯《たて》にすぎなかった。薄い黒紗《こくしゃ》で出来ている蠅の身体はよく透《す》けて見えるので、撮影に当ってレンズの能力を大して損《そこな》うものではなかったのである。
第四話 宇宙線
宇宙線という恐ろしい放射線が発見されてから、まだいくばくも経《た》たないが、人間は恐ろしい生物だ、はや人造《じんぞう》宇宙線というものを作ることに成功した。あのX光線でさえ一ミリの鉛板《えんばん》を貫《つらぬ》きかねるのに、人造宇宙線は三十センチの鉛板も楽に貫く。だから鉄の扉《ドア》やコンクリートの厚い壁を貫くことなんか何でもない。人間の身体なんかお茶の子サイサイである。
どこから飛んでくるか判らない宇宙線は、その強烈な力を発揮して、人間の知らぬ大昔から、人体を絶え間なくプスリプスリと刺《さ》し貫いているのだ。或るものは、心臓の真中を刺し貫いてゆく。また或るものは卵巣《らんそう》の中を刺し透し、或るものはまた、精虫《せいちゅう》の頭を掠《かす》めてゆく。こう言っている間も、私たちの全身は夥《おびただ》しい宇宙線でもってプスリプスリと縫われているのだ。
一体、そんなにプスリと縫われていて差支《さしつか》えないものか。差支えないとは云えない、たとえば、精虫が卵子といま結合しようというときに、突然数万の宇宙線に刺し透《とお》されたとしたらどうであろう。お盆《ぼん》のように丸くなるべきだった顔が、俄然《がぜん》馬のように長い顔に歪《ゆが》められはしま
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