蠅
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)小春日和《こはるびより》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)唯今|摂氏《せっし》五十五度に
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小春日和《こはるびより》の睡《ねむ》さったらない。白い壁をめぐらした四角い部屋の中に机を持ちこんで、ボンヤリと肘《ひじ》をついている。もう二時間あまりもこうやっている。身体がジクジクと発酵《はっこう》してきそうだ。
白い天井には、黒い蠅《はえ》が停っている。停っているがすこしも動かない。生きているのか、死んでいるのか、それとも木乃伊《ミイラ》になっているのか。
それにしても、蠅が沢山いることよ。おお、みんなで七匹もいる。この冬の最中に、この清潔な部屋に、天井から七匹も蠅がぶら下っていてそれでよいのであろうか。
そう思った途端《とたん》に、耳の傍でなんだか微《かす》かな声がした。ナニナニ。蠅が何かを咄《はな》して聴かせるって。
ではチョイト待ちたまえ。いま原稿用紙とペンを持ってくるから……。
オヤ。どうしたというのだろう。持って来た覚えもないのに、原稿用紙とペンが、目の前に載っているぞ。不思議なこともあればあるものだ。――
第一話 タンガニカの蠅
「あのウ、先生。――」
と背後《うしろ》で声がした。
クリシマ博士は、顕微鏡《めがね》から静かに眼を離した。そのついでに、深い息をついて、椅子の中に腰を埋《うず》めたまま、背のびをした。
「あのウ、先生」
「む。――」
「あの卵《らん》は、どこかにお仕舞いでしょうか」
「卵というと……」
「先日、あちらからお持ちかえりになりました、アノ駝鳥《だちょう》の卵ほどある卵でございますが……」
「ああ、あれか」と博士は始めて背後へふりかえった。そこには白い実験衣をつけた若い理学士が立っていた。
「あれは――、あれは恒温室《こうおんしつ》へ仕舞って置いたぞオ」
「あ、恒温室……。ありがとうございました。お邪魔をしまして……」
「どうするのか」
「はい。午後から、いよいよ手をつけてみようと存じまして」
「ああ、そうか、フンフン」
博士はたいへん満足そうに肯《うなず》いた。助手の理学士は、恭《うやうや》しく礼をすると、跫音《あしおと》もたてずに出ていった。彼はゴム靴を履いていたから……。
そこでクリシマ博士は、再び顕微鏡《めがね》の方に向いた。そしてプレパラートをすこし横へ躙《にじ》らせると、また接眼《せつがん》レンズに一眼を当てた。
「あのウ、先生」
「む。――」
またやって来たな、どうしたのだろうと、博士は背後をふりかえって、助手の顔を見た。
「あのウ、恒温室の温度保持のことでございますが、唯今|摂氏《せっし》五十五度になって居りますが、先生がスイッチをお入れになったのでございましょうか」
「五十五度だネ。……それでよろしい、あのタンガニカ地方の砂地の温度が、ちょうどそのくらいなのだ。持って来た動物資料は、その温度に保って置かねば保存に適当でない」
「さよですか。しかし恒温室内からピシピシという音が聞えて参りますので、五十五度はあの恒温室の温度としては、すこし無理過ぎはしまいかと思いますが……」
「なーに、そりゃ大丈夫だ。あれは七十度まで騰《あ》げていい設計になっているのだからネ」
「はア、さよですか。では……」と助手はペコンと頭を下げて、廻れ右をした。
博士は、折角《せっかく》の気分を、助手のためにすっかり壊《こわ》されてしまったのを感じた。といって別にそれが不快というのではない。ただ気分の断層によって、やや疲れを覚えて来たばかりだった。
博士は、白い実験衣のポケットを探ると、プライヤーのパイプを出した。パイプには、まだミッキスチェアが半分以上も残っていた。燐寸《マッチ》を擦って火を点けると、スパスパと性急に吸いつけてから、背中をグッタリと椅子に凭《もた》れかけ、あとはプカリプカリと紫の煙を空間に噴《ふ》いた。
(探険隊の一行が、タンガニカを横断したときは……)と博士は、またしても学者としての楽しい憶い出をうかべていた。
タンガニカで、博士は奇妙な一つの卵を見付けたのだった。助手がさきほども、駝鳥《だちょう》のような卵といったが、全くそれくらいもあろう。色は淡黄色《たんこうしょく》で、ところどころに灰白色《かいはくしょく》の斑点《はんてん》があった。それは何の卵であるか、ちょっと判りかねた。なにしろ、この地方は、前世紀の動物が棲《す》んでいるとも評判のところだったので、ひょっとすると、案外掘りだしものかも知れないと思った。鳥類にしても、余程《よほど》大きいものである。それではるばる博士の実験室まで持ってかえったというわけだった。そして他の動物資料と一緒に、タンガニカの砂地と同じ温度を保《たも》たせた恒温室の中に二十四時間入れて置いたというわけである。
ガン、ガラガラッ。
ガラガラガラッ。パシーン。
博士はパイプを床《ゆか》にとり落した。それほど物凄い、ただならぬ音響がした。音の方角は、どうやら恒温室だった。
「さては恒温室が、熱のために爆発らしいぞ」
博士は驚いて戸口の方へ歩《ほ》を搬《はこ》んだ。扉に手をかけようとすると扉《ドア》の方でひとりでパッと開いた。――その向こうには、助手の理学士の土色《つちいろ》の顔があった。しかも白い実験衣の肩先がひどく破れて、真赤な血潮が見る見る大きく拡がっていった。
「ど、どうしたのだッ」
「せ、せんせい、あ、あれを御覧なさい」
ブルブルと顫《ふる》う助手の指先は、表通《おもてどおり》に面した窓を指した。
博士は身を翻して、窓際《まどぎわ》に駈けつけた。そして硝子《ガラス》を通して、往来を見た。
大勢の人がワイワイ云いながら、しきりに上の方を指している。どうやら、向い側のビルディングの上らしい。
とたんに飛行機が墜落するときのような物凄い音響がしたかと思うと、イキナリ目の前に、自動車の二倍もあるような真黒なものが降りてきた。よく見ると、それには盥《たらい》のような眼玉が二つ、クルクルと動いていた。畳一枚ぐらいもあるような翅《はね》がプルンプルンと顫動《せんどう》していた。物凄い怪物だッ!
「先生。恒温室の壁を破って、あいつが飛び出したんです」
「君は見たのか」
「はい、見ました。あのお持ちかえりになった卵を取りにゆこうとして、見てしまいました。しかし先生、あの卵は二つに割れて、中は空《から》でした」
「なに、卵が空……」博士はカッと両眼《りょうがん》を開くと、怪物を見直した。そして気が変になったように喚《わめ》きたてた、「うん、見ろ見ろ。あれは蠅だ。タンガニカには身長が二メートルもある蠅が棲《す》んでいたという記録があるが、あの卵はその蠅の卵だったんだ。恒温室で孵化《ふか》して、それで先刻《さっき》からピシピシと激しい音響をたてていたんだ。ああ、タンガニカの蠅!」
博士は身に迫る危険も忘れ、呆然《ぼうぜん》と窓の下に立ちつくした。ああ、恐るべき怪物!
このキング・フライは、後に十五万ヴォルトの送電線に触《ふ》れて死ぬまで、さんざんに暴れまわった。
第二話 極左《きょくさ》の蠅
その頃、不思議な病気が流行《はや》った。
一日に五六十人の市民が、パタリパタリと死んだ。第十八世に一度姿を現わしたという「赤き死の仮面」が再び姿をかえて入りこんだのではないかと、都大路《みやこおおじ》は上を下への大騒動だった。
「きょうはこれで……六十三人目かナ」
死屍室《しししつ》から出て来た伝染病科長は、廊下に据付《すえつ》けの桃色の昇汞水《しょうこうすい》の入った手洗の中に両手を漬《つ》けながら独り言を云った。そこへ細菌科長が通りかかった。
「おい、どうだ。ワクチンは出来たか」
「おお」と細菌科長は苦笑《にがわら》いをしながら足を停めた。「駄目、駄目、ワクチンどころか、まだ培養《ばいよう》できやせん」
「困ったな。今日は息を引取ったのが、これで六十……」
と云おうとしたところへ、肥《ふと》っちょの看護婦がアタフタ駈けてきた。
「先生、すぐ第二十九号室へお願いします。脈が急に不整《ふととの》えになりまして……」
「よオし。すぐ行く」といって再び細菌科長の方を振りかえり、「今日はレコード破りだぞ。こんどが六十四人目だ」
「……」
二人は反対の方角に、急ぎ足で立ち去った。
入れかわりに、廊下をパタパタ草履《ぞうり》を鳴らしながら、警視庁の大江山《おおえやま》捜査課長と帆村《ほむら》探偵とが、肩を並べながら歩いて来た。
「……だから、こいつはどうしても犯罪だと思うのですよ、課長さん」
「そういう考えも、悪いとは云わない。しかし考えすぎとりゃせんかナ」
「それは先刻《さっき》から何度も云っていますとおり、私の自信から来ているのです。なにしろ、病人の出た場所を順序だてて調べてごらんなさい。それが普通の伝染病か、そうでないかということが、すぐ解《わか》りますよ。普通の伝染病なら、あんな風に、一つ町内に出ると、あとはもう出ないということはありません」
「しかし伝染地区が拡がってゆくところは、伝染病の特性がよく出ていると思う」
「伝染病であることは勿論《もちろん》ですが、ただ普通じゃないというところが面白いのですよ」
二人の論争が、そこでハタと停った。彼の歩調も緩《ゆる》んだ。丁度《ちょうど》二人が目的の部屋の前に来たからである。黒い漆《うるし》をぬった札の表には、白墨《はくぼく》で「病理室」と書いてあった。
ノックをして、二人は部屋の扉《ドア》を押した。
「やあ――」
と暗い室内から声をかけたのは、花山医学士だった。彼は待ちかねたという面持《おももち》で、二人を大きな卓子《テーブル》の方へ案内した。そこには硝子蓋《ガラスぶた》のついた重《かさ》ね箱《ばこ》が積んであった。
「このとおりです。みんな調べてみました」
硝子箱の中には、沢山の白い短冊型《たんざくがた》の紙がピンで刺してあった。そして大部分は独逸文字《ドイツもじ》で書き埋《うず》められてあったが、一部の余白みたいなところには、アラビア・ゴムで小さい真黒な昆虫が附着していた。どの短冊もそうであった。
それは蠅以外の何物でもなかった。
「結果は如何でした」
と帆村探偵が、頬を染めながら訊《き》いた。
「大体を申しますと、この蠅の多くは、家蠅《いえばえ》ではなくて、刺蠅《さしばえ》というやつです。人間を刺す力を備えているたった一種の蠅です。普通は牛小屋や馬小屋にいるのですが、こいつはそれとはすこし違うところを発見しました。つまり、この蠅は、自然に発生したものではなくて、飼育されたものから孵《かえ》ったのだということが出来ます」
「すると、人の手によって孵されたものだというのですね」と帆村が訊《き》きかえした。
「そういうところです。なぜそれが断言《だんげん》できるかというと、この蠅どもには、普通の蠅に見受けるような黴菌《ばいきん》を持っていない。極めて黴菌の種類が少い。大抵《たいてい》なら十四五種は持っているべきを、たった一種しか持っていない。これは大いに不思議です。深窓《しんそう》に育った蠅だといってよろしい」
「深窓に育った蠅か? あッはッはッはッ」と捜査課長が謹厳《きんげん》な顔を崩して笑い出した。
「その一種の黴菌《ばいきん》とは、一体どんなものですか」と帆村は笑わない。
「それが――それがどうも、珍らしい菌ばかりでしてナ」
「珍らしい黴菌ですって」
「そうです。似ているものといえば、まずマラリア菌ですかね。とにかく、まだ日本で発見されたことがない」
「マラリアに似ているといえば、おお、あいつだ」と帆村はサッと蒼《あお》ざめた。「いま大流行の奇病の病原菌もマラリアに似ているというじゃないですか。最初はマラリアだと思ったので、マラリアの手当をして今に癒《なお》ると予定をつけていたが、どうしてどうして癒るどころか、癒らにゃならぬ
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