。友人のところへ猟銃《りょうじゅう》を借りにゆく手はあるんだが、既にもう間に合わなかった。そんなに愚図愚図《ぐずぐず》手間どっていると、この蠅は象のように大きくなってしまうことだろう。
 狼狽《ろうばい》と後悔《こうかい》との二重苦のうちに、私は不図《ふと》一つの策略を思いついた。それはすこし無鉄砲なことではあったが、この上は躊躇《ちゅうちょ》している場合ではない。――と咄嗟《とっさ》に腹を極《き》めた私は、赤いレッテルの生長液の入った壜をとりあげて栓を抜くと、グッと一《ひ》と息《いき》に生長液を嚥《の》んだのであった。
 たちまち身体の中は、アルコールを炊《た》いたような温かさを感じた。と思ったら私の身体はもうブツブツ膨《ふく》れはじめた。シャボン玉のように面白いほど膨らみ始めた。
 あの親蠅はと見ると、先程に比べてなるほど小さく見えだした。これは私の身体が大きくなったのでそう見えるのであろう。室内の調度に比べると、彼《か》の蠅は土佐犬《とさいぬ》ほどの大きさになっているらしかった。大量の生長液を飲んだせいで私は尚《なお》もグングン大きくなっていった。そのうちに親蠅は私の両手でがっちりつかめそうになった。
「よオし、こいつが……」
 私はたちまち躍りかかると、親蠅の咽喉《のど》を締めつけた。蠅は大きな眼玉をグルグルさせ、口吻《こうふん》からベトベトした粘液《ねんえき》を垂らすと、遂《つい》にあえなくも、呼吸が絶《た》えはてた。そしてゴロリと上向《うわむ》きになると、ビクビクと宙に藻掻《もが》いていた六本の脚が、パンタグラフのような恰好《かっこう》になったまま動かなくなってしまった。私はほっと溜息をついた。
 そのときだった。私は頭をコツンとぶつけた。見ると私の頭は天井にぶつかったのであった。何しろグングン大きくなってゆくので、こんなことになってしまったのだ。私は元々坐っていたのであるが、蠅を殺すときに中腰《ちゅうごし》になっていた。このままでいると、天井を突き破るおそれがあるので、私はハッとして頭を下げて、再びドカリと坐った。
「ああ、危かった」
 だが、本当に危いのは、それから先であるということが直《す》ぐ解《わか》った。私の身体はドンドン膨《ふく》れてゆく。このままでは部屋の内に充満するに違いない。外へ出ようと思ったが、そのときに私は恐ろしいことを発見した。
「ああッ、これはいけない!」
 私は思わず叫んだ。もうこんなに身体が大きくなっては、窓からも扉《ドア》のある出入口からも外に出られなくなっているのだった。部屋から逃げだせないとしたら、これから先ず一体どうしたらいいのだろう。
 恐《おそ》らく私の身体は壁を外へ押し倒し、この家を壊してしまわないと外へ出られないだろう。だがこの部屋の構造は特別に丈夫に作らせてあるのだ。身体の方が負けてしまうかも知れない。内から生長してゆく恐ろしい力が巌丈《がんじょう》な壁や柱に圧された結果はどうなるのだろうか。私の五体は、両国《りょうごく》の花火のようになって、真紅《まっか》な血煙とともに爆発しなければならない。そのうちに肩のところがメリメリいって来た。
 私は二度の大狼狽《おおろうばい》に襲われた。
「これアいかん!」
 こうなっては、一秒も争う。私は神を念じ、痛い顎《あご》の骨を折って、あたりを見まわした。そのとき天の助けか、目についたのは一個の薬壜だった。青レッテルを貼った縮小液の入った壜だった。
「そうだ。あれを飲めば、身体が小ちゃくなるぞ!」
 私は指の尖端《さき》に唾《つば》をつけて、その青レッテルの壜をへばりつけた。それから爪の先で、いろいろやってみてやっと栓《せん》を抜いた。
「さあ、しめたッ」
 私はそのひとたらしもない薬液を、口の中へ滴《たら》しこんだ。それはたいへん苦《にが》い薬だった。
 スーッと身に涼風《りょうふう》が当るように感じたそのうちに、エレヴェーターで下に降りるような気がしてきた。それと共に身体が冷《ひえ》て、ガタガタ慄《ふる》えだした。しかし、ああ、私の身体はドンドン小さくなって行く。坐っていて箪笥《たんす》の上に首が載《の》ったのが、今は箪笥と同じ高さになった。
 ますます縮んでいった。立ち上っても、頭が鴨居《かもい》の下に来た。椅子に坐ってみても丁度《ちょうど》腰の下ろし具合がいい。もうこれで元のようになったと感じた。
 しかしである。また心配なことが起って来た。元のようになった身体は、まだグングン小さくなってゆくのだった。椅子に腰を下ろしていて、足の裏がいつの間にやら、絨毯《じゅうたん》から離れて来た。下へ降りようと思うと、窓から下へ飛び降りるように恐ろしくなってきた。私はお人形ほどの大きさになったのである。
 それ位に止《と》まるならば、まだよかったのであるが、更に更に、身体は小さく縮《ちぢ》まっていった。私はキャラメルの箱に蹴つまずいて、向う脛《ずね》をすりむいた。馬鹿馬鹿しいッたらなかった。そのうちに、私は不思議なものを発見した。それは一匹の豚《ぶた》ほどもある怪物が、私の方をじっと見て、いまにも飛びかかりそうに睨《にら》んでいるのだ。
「なにものだろう!」
 私は首を傾けた。そんな動物がこの部屋に居るとは、一向思っていなかったのだ。
 しかしよく見ると、その怪物は大きな翅《はね》があった。鏡のような眼があった。鉄骨のような肢《あし》があって、それに兵士の剣のような鋭い毛がところきらわず生えていた。私はそのときやっとのことで、その怪物の正体に気がついた。
「ああ、こいつは、私の先刻《さっき》殺した蠅の仔なのだ」
 仔蠅にしては、何という大きな巨獣《きょじゅう》(?)になったのであろうか。
 その恐ろしい仔蠅は、しずしずと私の方に躙《にじ》りよってきた。眼玉が探照灯《たんしょうとう》のようにクルクルと廻転した。地鳴りのような怪音が、その翅のあたりから聞えてきた。蓮池《はすいけ》のような口吻《こうふん》が、醜くゆがむと共に、異臭のある粘液がタラタラと垂《た》れた。
「ぎゃーッ」
 私の頭の上から、そのムカムカする蓮池《はすいけ》が逆さまになって降って来たのだ。私の横腹は、銃剣のような蠅の爪《つめ》でプスリと刺しとおされた。
「ぎゃーッ。――」
 そこで私は何にも判らなくなってしまった。その仔蠅に食われたことだけ判っていた。不思議にも、何時《いつ》までも何時《いつ》までも記憶の中にハッキリ凍りついて残っていた。



底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
   1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「ぷろふいる」
   1934(昭和9)年2月号〜9月号
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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