の扉《ドア》を押した。
「やあ――」
と暗い室内から声をかけたのは、花山医学士だった。彼は待ちかねたという面持《おももち》で、二人を大きな卓子《テーブル》の方へ案内した。そこには硝子蓋《ガラスぶた》のついた重《かさ》ね箱《ばこ》が積んであった。
「このとおりです。みんな調べてみました」
硝子箱の中には、沢山の白い短冊型《たんざくがた》の紙がピンで刺してあった。そして大部分は独逸文字《ドイツもじ》で書き埋《うず》められてあったが、一部の余白みたいなところには、アラビア・ゴムで小さい真黒な昆虫が附着していた。どの短冊もそうであった。
それは蠅以外の何物でもなかった。
「結果は如何でした」
と帆村探偵が、頬を染めながら訊《き》いた。
「大体を申しますと、この蠅の多くは、家蠅《いえばえ》ではなくて、刺蠅《さしばえ》というやつです。人間を刺す力を備えているたった一種の蠅です。普通は牛小屋や馬小屋にいるのですが、こいつはそれとはすこし違うところを発見しました。つまり、この蠅は、自然に発生したものではなくて、飼育されたものから孵《かえ》ったのだということが出来ます」
「すると、人の手によって孵されたものだというのですね」と帆村が訊《き》きかえした。
「そういうところです。なぜそれが断言《だんげん》できるかというと、この蠅どもには、普通の蠅に見受けるような黴菌《ばいきん》を持っていない。極めて黴菌の種類が少い。大抵《たいてい》なら十四五種は持っているべきを、たった一種しか持っていない。これは大いに不思議です。深窓《しんそう》に育った蠅だといってよろしい」
「深窓に育った蠅か? あッはッはッはッ」と捜査課長が謹厳《きんげん》な顔を崩して笑い出した。
「その一種の黴菌《ばいきん》とは、一体どんなものですか」と帆村は笑わない。
「それが――それがどうも、珍らしい菌ばかりでしてナ」
「珍らしい黴菌ですって」
「そうです。似ているものといえば、まずマラリア菌ですかね。とにかく、まだ日本で発見されたことがない」
「マラリアに似ているといえば、おお、あいつだ」と帆村はサッと蒼《あお》ざめた。「いま大流行の奇病の病原菌もマラリアに似ているというじゃないですか。最初はマラリアだと思ったので、マラリアの手当をして今に癒《なお》ると予定をつけていたが、どうしてどうして癒るどころか、癒らにゃならぬ日には、その病人の息の根が止まっていた。では、あの蠅の持っている黴菌《ばいきん》というのが、あの奇病を起させたのじゃないですか」
医学士は黙っていた。その答えは彼の領分《りょうぶん》ではなかったから。
大江山捜査課長も黙っていた。目の前に現われた事実が、帆村の予言したところと、あまりによく一致して来たので。
「さあ大江山さん」と帆村は捜査課長を促《うなが》した。「これから、あの蠅を採取した地区を探してみるのです。もっと大胆な推定を下すならば、犯人は沢山の蠅を飼育し、その一匹一匹に病原菌を持たせて、市民に移していったのです。犯人は、あの奇病の流行した地区の幾何学的《きかがくてき》中心附近に必ず住んでいるに違いありません。さあ行きましょう。行って、その間接の殺人魔を捉《とら》えるのです」
二人は病理学研究室を飛び出すと、すぐに自動車を拾った。いわゆる奇病発生地区の幾何学的中心地が、帆村の手で苦もなく探し出された。
二人が、チンドン屋の寅太郎《とらたろう》という、いつも手甲《てこう》脚絆《きゃはん》に大石良雄《おおいしよしお》を気取って歩く男を捉えたのは、それから間もなくの出来ごとだった。その寅太郎の遂《つい》に自白したところによると、彼こそ正《まさ》しくその犯人だった。極左の一人として残る医学士の彼が、蠅に黴菌を背負わして、この恐ろしい犯行を続けていたことが明かになった。ねじけた彼にとって、市民をやっつけることは、またとない悦《よろこ》びだったのだ。彼が丹精《たんせい》して飼育したその毒蠅は、チンドンと鳴らして歩くその太鼓《たいこ》の中にウジャウジャ発見された。彼が右手にもった桴《ばち》で太鼓の皮をドーンと叩くと、胴の上に設けられてある小さい孔《あな》から、蠅が一匹ずつ、外へ飛び出す仕掛けになっていた。
彼の検挙によって、例の奇病が跡を絶ったのは云うまでもない。
第三話 動かぬ蠅
好《す》き者《もの》の目賀野千吉《めがのせんきち》は、或る秘密の映画観賞会員の一人だった。
一体そうした秘密映画というものは、一と通りの仕草《しぐさ》を撮ってしまうと、あとは千辺一律《せんぺんいちりつ》で、一向《いっこう》新鮮な面白味をもたらすものではない。そこで会主《かいしゅ》は、会員の減少をおそれて一つの計画を樹《た》てた。それは会員たちから、いろいろの注文を聞
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