蠅
(妻が失踪《しっそう》してから、もう七日になる)
彼は相変《あいかわ》らず無気力な瞳を壁の方に向けて、待つべからざるものを待っていた。腹は減ったというよりも、もう減りすぎてしまった感じである。胃袋は梅干大《うめぼしだい》に縮小していることであろう。
妻を探しにゆくなんて、彼には、やりとげられることではなかった。外はどこまでも続いた密林、また密林である。人間といえば彼と妻ときりしか住んでいない。食いつめて、虐《しいた》げられて、ねじけきって辿《たど》りついたこの密林の中の荒れ果てた一軒家だった。主人のない家とみて今日まで寝泊りしているのだった。
失踪した妻を探しにゆく気力もなかった。それほど大事な妻でもなかった。結局一人になった方が倖《しあわせ》かもしれない。しかし、倖なんておよそおかしなものである。腹の減ったときに蜃気楼《しんきろう》を見るようなもので、なんの足しになるものかと思った。
陽がうっすらとさしていたのが、いつの間にやら、だんだんと吸いとられるように消えていった。そしてポツポツ雨が降ってきた。密林の雨は騒々《そうぞう》しい。木の葉がパリパリと鳴った。
丸太ン棒を輪切りにして、その上に板をうちつけた腰掛の下から、一陣の風がサッと吹きだした。床に大きな窓が明いているのであった。とたんにどッと降りだした篠《しの》をつくような雨は、風のために横なぐりに落ちて、窓枠《まどわく》をピシリピシリと叩いた。密林がこの小屋もろとも、ジリジリと流れ出すのではないかと思われた。
流れ出してもよい。すべて天意のままにと彼は思った。
雨は、ひとしきり降ると、やがて見る見る勢《いきおい》を失っていった。そしてあたりはだんだん明るさが恢復《かいふく》していった。風もどこかへ行ってしまった。
やがてまたホンノリと、薄陽《うすび》がさしてきた。彼はまだ身体一つ動かさず、破れた壁を見詰《みつ》めていた。雨が上《あが》ったら、どこからか妻がキイキイ声をあげながら、小屋へ駈けこんでくるように感じられた。だがそれは、いつもの期待と同じように、ガラガラと崩《くず》れ落ちていった。いつまでたってもキイキイ声はしなかった。
壁を見詰めている彼の瞳の中に、なんだかこう新しい気力《きりょく》が浮んできたように見えた。壁に、どうしたものかたくさんの蠅が止まっている。一匹、二匹、三匹と数えていって、十匹まで数えたが、それからあとは嫌《いや》になった。十匹以上、まだワンワンと居た。
(どうして蠅が、こう沢山居るのだろう)
彼はようやく一つの手頃な問題にとりついたような気がした。別に解《と》けなくともよい。気に入る間だけ、舌の上に載《の》せた飴玉《あめだま》のように、あっちへ転がし、こっちへ転がしていればいいのだ。さて、蠅がどうしてこんなに止まっているのか。
(ウン、そうだ……)
そうだ。蠅はさっきまで一匹も壁の上に止まっていたように思われない。蠅が急に壁の上に殖《ふ》えたのは、先刻《さっき》の豪雨《ごうう》があってから、こっちのことだ。
(そうだ。雨が降って、それで蠅が殖えたのだ。どうして殖えたのだ?)
窓には硝子板《ガラスいた》なんてものが一枚も入っていなかった。板で作った戸はあったけれど、閉めてなかった。この窓から、あの蠅が飛びこんできたのに違いない。しかし飛びこんでくるとしても、この夥《おびただ》しい一群の蠅が押しよせるなんて、彼がこの小屋に住むようになった一年この方、いままでに無いことだった。
(なぜ、今日に限って、この夥しい蠅の一群が飛びこんで来たのだ。どこから、この夥しい蠅が来たのだ)
彼の眼は次第に険悪《けんあく》の色を濃くしていった。
どこから来たのだ、この夥しい蠅群は!
「ああッ。――」
と彼は叫んだ。
「この蠅が来るためには、この家の外に、なにか蠅が沢山たかっている物体があるのだ。雨が降って――そして蠅が叩かれ、あわててこの窓から飛びこんできたのだ。そうだそうだ、それで謎は解ける!」
彼は爛々《らんらん》たる眼で見入《みい》った。
(だが、その蠅の夥《おびただ》しくたかっている物体というのは、一体なにものだったろう)
彼は急に落着かぬ様子になって、ブルブルと身体を慄《ふる》わした。両眼はカッと開き、われとわが頭のあたりにワナワナとふるえる両手を搦《から》みつけた。
「ああッ。――ああッ、あれだッ。あれだッ」
彼は腰掛から急に立ち上った。釘《くぎ》をうったように棒立ちになった。ひどい痙攣《けいれん》が、彼の頬に匍《は》いのぼった。
「妻だ。妻の死体だッ」彼の声は醜《みにく》く皺枯《しわが》れていた。「妻の死体が、すぐそこの窓の下に埋《う》まっているのだ。それがもう腐って、ドンドン崩れて、その上に蠅がいっぱいたかっ
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