と一伍一什《いちぶしじゅう》を見ていた軍団長はうまいことを述《の》べて、大きな椅子のうちに始めて腰を下ろした。
「注意をすることが、卑怯であるとは思いませぬ」とマレウスキー中尉は引込んでいなかった。「怪しいことがあれば、そいつは何処までも注意しなきゃいけません。たとえば……」
「たとえば何だという?」とフョードルが憎々《にくにく》しげに中尉を睨《にら》みつけた。
「たとえば、ああ、そこをごらんなさい。一匹の蠅が壁の上に止まっている。そいつを怪しいことはないかどうかと一応疑ってみるのがわれわれの任務ではないか」
「蠅が一匹、壁に止まっているって? フン、あれは……あれは先刻《さっき》弁当屋の小僧が持って来た弁当の函から逃げた蠅一匹じゃないか。すこしも怪しくない」
「それだけのことでは、怪しくないという証明にはならない。それは蠅があの黒い函の中から逃げだせるという可能性について論及《ろんきゅう》したに過ぎない。あの蠅を捕獲《ほかく》して、六本の脚と一個の口吻《こうふん》とに異物《いぶつ》が附着しているかいないかを、顕微鏡の下に調べる。もし何物か附著していることを発見したらば、それを化学分析する。その結果があの黒函の中の内容である豚料理の一部分であればいいけれど、それが違っているか、或いは全然附着物が無いときには、どういうことになるか。あの蠅は弁当屋の出前の函にいたものではないという証明ができる。さアそうなれば、あの蠅は一体どこからやって来たのだろうか。もしやそれは一種の新兵器ではないかと……」
「あッはッはッはッ」と参謀フョードルは腹を抱《かか》えて笑い出した。「君の説はよく解った。そういう種類の説は昔から非常に簡単な名称が与えられているのだ。曰く、懐疑《かいぎ》主義とネ」
「イヤ参謀、それは粗笨《そほん》な考え方だと思う。一体この室に蠅などが止まっているというのが極《きわ》めて不思議なことではないか。ここは軍団長の居らるる室だ。ことに季節は秋だ。蠅がいるなんて、わが国では珍らしい現象だ」
「弁当屋が持って来たのなら、怪しくはあるまいが……」
「ことに新兵器なるものは、敵がまったく思いもかけなかったような性能と怪奇な外観をもつのを佳《よし》とする。もし蠅の形に似せた新兵器があったとしたら……。そしてあの弁当屋の小僧が実は白軍のスパイだったとしたら……」
「君は神経衰弱だッ」。
「参謀は神経が鈍《にぶ》すぎるッ」
「いいや、君は……」
「鈍物参謀《どんぶつさんぼう》」
「やめいッ!」
と軍団長が大喝《たいかつ》した。
「はッ」と二人は直立不動の姿勢をとった。
「もうやめいッ、論議は無駄だ。喋っている遑《いとま》があったら、なぜあの蠅を手にとって検《しら》べんのじゃ」
「はッ」
二人は顔を見合わせた。誰が蠅を検べにゆくのがよいか――と考えた。その途端《とたん》に、フョードルも、中尉もハッと顔色をかえて、胸をおさえた。軍団長もヨロヨロとよろめきながら、右手で心臓を圧《おさ》えた。そればかりではない。司令部広間にいた幕僚も通信手も伝令も、皆が胸を圧えた。そして次の瞬間には立てて並べてあった本がバタリバタリと倒れるように、一同はつぎつぎに床の上に昏倒《こんとう》した。間もなく、この大広間は、世界の終りが来たかのように、一人のこらず死に絶えた。まことに急激な、そして不可解な死に様《よう》だった。
たった一つ、依然として活躍しているものがあった。それは壁にとまっていた一匹の蠅だった。その蠅の小さい一翅《いっし》は、どうしたものか、まったく眼に見えなかった。それは翅が無いのではなく、翅が非常に速い振動をしていたからである。その翅の特異な振動から、殺人音波が室内にふりまかれているのであった。白軍の新兵器、殺人音波は、実にこの蠅から放射されていたのである。
蠅は死にそうでいて、中々元気であった。人間が死んで、蠅が死なないのはおかしいが、もし手にとって、顕微鏡を持つまでもなく肉眼でよく見るならば、この蠅が唯《ただ》の蠅ではなく、ロボット蠅《ばえ》であることを発見したであろう。
この精巧なロボット蠅は、弁当屋の小僧が持って来て、壁にとりつけていったものだった。蠅が止まっていると格別気にもしなかった間にあの小僧に化けたスパイは遠くに逃げ失せた。その頃、一つの電波が白軍の陣営から送られ、それであのロボット蠅の翅は忽《たちま》ち振動を始めたのだ。その翅からは戦慄《せんりつ》すべき殺人音波が発射され、室内の一同を鏖殺《みなごろ》しというわけだった。軍団長のいうとおり、もっと早く蠅を手にとって検べていたら、こんな悲惨な結果にはならなかったろう。
ロボット蠅は、それから後も、続々《ぞくぞく》と偉功《いこう》を樹《た》てた。
第六話 雨の日の
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