ているのだ。……先刻の雨に叩かれて、そこにいる蠅の一群が、窓から逃げこんできたのだ。ああ、妻の死体を嘗《な》めた蠅が、そこの壁の上に止まっている!」
 彼は後退《あとずさ》りをすると、背中を壁にドスンとぶつけた。
「……で、その妻は、一体誰が殺し、誰がそこに埋めたのだろうか」
 彼は土の下で腐乱《ふらん》しきった妻の死体を想像した。いまの雨に、その半身《はんしん》が流れ出されて、土の上に出ているかもしれないと思った。
「殺したのは誰だ。この無人境《むじんきょう》で、妻を殺したのは誰だッ」
 そのとき、入口の扉《ドア》がコツコツと鳴った。誰かがノックをしているのだ。
「あワワ……」
 彼は身を翻《ひるがえ》すと、部屋の隅に小さくなった。まるで蜘蛛《くも》の子が逃げこんだように。
 コツ、コツ、コツ。
 又もや気味の悪い叩音《ノック》が聞える。
 彼は死んだようになって、息をころした。
 そのとき扉の外で、ガチャリと音がした。鍵の外れるような音であった。そしてイキナリ、重い扉が外に開いた。その外には詰襟《つめえり》の制服に厳《いかめ》しい制帽を被った巨大漢《きょだいかん》と、もう一人背広を着た雑誌記者らしいのとが肩を並べて立っていた。
「これがその男です」と、制服の監視人が部屋の中の彼を指して云った。「妻を殺して、窓の外にその死体を埋めてあるように思っている患者です。この男は何でも前は探偵小説家だったそうで、窓から蠅が入ってくると、それから筋を考えるように次から次へと、先を考えてゆくのです。そして最後に、自分が夢遊病者《むゆうびょうしゃ》であって、妻を殺してしまったというところまで考えると、それで一段落《いちだんらく》になるのです。そのときは、いかにも小説の筋が出来たというように、大はしゃぎに跳《は》ねまわるのです。……強暴性の精神病患者ですから、この部屋はこれまでに……」


   第七話 蠅に喰われる


 机の上の、小さな蒸発皿《じょうはつざら》の上に、親子の蠅が止まっている。まるで死んだようになって、動かない。この二匹の親子の蠅は、私の垂《た》らしてやった僅《わず》かばかりの蜂蜜に、じッと取付いて離れなくなっているのだ。
 そこで私は、戸棚の中から、二本の小さい壜をとりだした。一方には赤いレッテルが貼ってあり、もう一つには青いレッテルが貼ってあった。この壜の中には、極めて貴重な秘薬《ひやく》が入っているのだった。赤レッテルの方には生長液《せいちょうえき》が入って居り、青レッテルの方には「縮小液《しゅくしょうえき》」が入っていた。これは或るところから手に入れた強烈な新薬である。私はこの秘薬をつかって、これからちょっとした実験をして見ようと思っているのだ。
 私は赤レッテルの壜の栓を抜くと、妻楊子《つまようじ》の先をソッと差し入れた。しばらくして出してみると、その楊子の尖端《せんたん》に、なんだか赤い液体が玉のようについていた。それが生長液の一滴《いってき》なのであった。
 私はその妻楊子の尖端を、蒸発皿の方へ動かした。そして親蠅《おやばえ》がとりついている蜂蜜の上に、生長液をポトンと垂《た》らした。それから息を殺して、私は親蠅の姿を見守った。
 ブルブルブルと、蠅は翅《はね》をゆり動かした。
「うふーン」
 と私は溜息をついた。蠅はしきりに腹のあたりを波うたせている。不図《ふと》隣りの仔蠅の方に眼をうつした私は、どンと胸をつかれたように思った。
「呀《あ》ッ。大きくなっている!」
 仔蠅の身体に較べて、親蠅はもう七八倍の大きさになっているのだ。そして尚《なお》もしきりに膨《ふく》れてゆくようであった。
「ほほう。蠅が生長してゆくぞ。なんという素晴らしい薬の効目《ききめ》だ」
 蠅は薬がだんだん利いて来たのであろうか。見る見る大きくなっていった。三十秒後には懐中時計ほどの大きさになった。それから更に三十秒のちには、亀《かめ》の子束子《こだわし》ほどに膨《ふく》れた。私はすこし気味が悪くなった。
 それでも蠅の生長は停まらなかった。亀の子束子ほどの蠅が、草履《ぞうり》ほどの大きさになり、やがてラグビーのフットポールほどの大きさになった。電球ぐらいもある両眼《りょうがん》はギラギラと輝き、おそろしい羽ばたきの音が、私の頬を強く打った。それでもまだ蠅はグングンと大きくなる。こんなになると、蠅の生長してゆくのがハッキリ目に見えた。私はすっかり恐《おそ》ろしくなった。
 蠅の身体が、やがて鷲《わし》ぐらいの大きさになるのは、間のないことであろうと思われた。
(これはもう猶予《ゆうよ》すべきときではない。早く叩き殺さねば危い!)
 なにか適当の武器もがなと思った私は、慌《あわ》てて身辺をふりかえったが、そこにはバット一本転がっていなかった
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