い場になっていて、そこに二、三人の人たちが広々と両手両足をなげだして、湯にのぼせた身体をひやしていた。
「どこが新別府なんだろう。プールは別に別府らしくも何ともないじゃないか」
と帆村がいうと、楢平は指をさして、
「新別府ちゅうのは、この奥にある砂風呂のことや。そのわりに流行ってえへんけれどなあ。よかったら行ってみなはれ。ええ女子がおって、あんじょう砂をかけてくれるがな」といった。
帆村は妙な気になった。
今夜からいよいよ死闘だと覚悟していたのに、それがこんな風に呑気《のんき》に浴場に入って汗を流せるなんて、夢のような話ではないか。
しかし実をいえば、帆村もまた大阪人に負けぬくらい風呂好きであった。別府式の砂風呂と聞いては、もうじっとしていられなかった。楢平をプールに残しておいて、彼はその砂風呂のある別館の方へ手拭片手にノコノコと歩いていった。
なるほど別館建てのこの砂風呂は、思ったよりお粗末だが、ともかくも別府を模倣して、およそ二十畳敷くらいの一室全部を綺麗な砂で充たしてあった。そして、中には湯気がモヤモヤとたれこめていて、電灯がほの暗かった。
中はガランとしていた。
ただ一人、あまり上手ではない浪花節を、頭の天頂《てっぺん》からでるような声でうたっている客があるきりだった。
「――※[#歌記号、1−3−28]わざとよろめき立ち上り、心は後にうしろ髪、取って引かるる気はすれどオ。気を励ました内蔵助《くらのすけ》エ、――」
と、うたうは南部坂《なんぶざか》雪の別れの一節だった。この節は、頗《すこぶ》る古い節まわしだった。このうたい手は、砂の中から首だけだして、向うの壁に向いたまま、真赤になって唸っているのだった。
帆村は、これも奥へよったところを選び、両手で砂を掘って穴をこしらえていった。砂を掘ると、あとから湯がドンドン湧いてきた。彼はほどよい穴をつくると、そのなかにボチャンと身体をつけた。なかなかいい気持であった。
相客はまだ浪花節をうなりつづけていた。
帆村は身体をゴソゴソ動かして、その相客と同じように胸のあたりにしきりに砂を掻きよせた。
そのとき一人の女が、室内に入ってきたのを感じた。絣《かすり》の着物を、短く尻はしょりをして、白い湯文字を短くはいていた。
その女はいきなり帆村の方へやってきて、
「おいでやす。もっとうまいこと砂をかけてあげまひょうか」
といって、彼のうしろにまわり、肩のところへ砂をバサバサかけてくれた。
「ありがとう。もういいよ」
と帆村がいった。女は黙って、なおも砂を帆村の頸の方にまで積んでいった。女はさっきの愛想笑いに似ず、急に無口のようになって、帆村の頸のあたりに、妙な具合に両手をからませるのであった。
(変だぞオ)
と思ったその刹那《せつな》、それまで帆村の頸のまわりを戯《たわむ》れのように搦《から》んでは解け、解けてはまた搦《から》みついてきた女のしなやかな指が、板片のような強さでもって、帆村の頸をグッと締めつけた。彼は愕《おどろ》いて砂の中から立ち上ろうとしたが、女は盤石《ばんじゃく》のように上から押しつけていて、帆村の自由にならない。その上、女の指は頸をギュウギュウしめつけてくる。向うの相客に助けを求めようとしたが、声の出るべき咽喉がこの有様で、呻《うな》ることさえ出来なかった。そのとき向いのうしろ向きになっていた男が、急にピタリと浪花節をやめた。
「やれ、気がついてくれたか」
と思って悦《よろこ》んだのは、ほんの一瞬間であった。
相客《あいきゃく》は砂の中に、その長い頸《くび》をグッと曲げて、帆村の方を眺めた。彼はすべてを呑みこんでいるという風にニヤニヤと笑っているのだった。長い顔、そして大きな唇。その顔!
「おお、貴様は蠅男だな」
帆村は口の中で呀《あ》ッと叫んだ。
砂の中から出ているのは、蠅男の頸だったのである。悪逆残忍、たとえるに物なき殺人魔・蠅男の首に外《ほか》ならなかった。
「お竜《りゅう》、しっかり圧《おさ》えていろ」
蠅男は底力のある低い声で呶鳴《どな》った。
お竜! するといま帆村の頸《くび》を圧《おさ》えつけているのは、蠅男の情婦のお竜だったのだ。
よくもここまで帆村を引ずりこんだものである。いや、これは蠅男が一歩先の先まわりをして、ここに陥穽《かんせい》を設けておいたものであろう。帆村の想像していたとおり、天王寺公園付近に蠅男は隠れていて、そこを縄ばりとする仲間の誰彼と、緊密な連絡をとっていたものらしい。
帆村はいまや風前の灯であった。お竜がこの上グッと手に力を入れるか、それとも蠅男が砂の中から飛びついてくれば、もうおしまいだった。
帆村一生の不覚だった。
彼は頸を締めつけられるあまり、だんだん朦朧《もうろう》となってくる意識の中で、なんとかしてこの危難からのがれる工夫はないものかと、働かぬ頭脳に必死の鞭《むち》をうちつづけた。
死線を越えて
稀代《きだい》の怪魔《かいま》「蠅男」の暴逆《ぼうぎゃく》のあとを追うて苦闘また苦闘、神のような智謀をかたむけて、しかも勇猛果敢な探偵ぶりを見せた青年探偵帆村荘六も、いま一歩というところで、無念にも蠅男とお竜の術中に陥《おちい》り、いま湯気に煙る砂風呂のうちに惨殺《ざんさつ》されようとしているのであった。なんという無慚《むざん》、なんという口惜しさであろう。
お竜の十本の指がやさしき女とは思われぬ恐ろしい力でもって、帆村の頸を左右から刻一刻と締めつけてくるのだった。起き上ろうとするが、生憎《あいにく》首のところまで砂に埋っており、肩の上からはお竜のはちきれるように肥えた膝頭が、盤石のような重味となって圧《お》しつけているのであった。これでは身動きさえできない。
(参った。――しかしまだ血路の一つや二つはありそうなものだが!)
帆村は全身の血を脳髄のなかに送って、死線を越えようと努力をつづけていた。
「こ、殺される前に――」
と、帆村はふりしぼるような声をあげた。
「しッ、静かにしろ」
と、蠅男は依然として砂のなかから首だけだして眼を剥《む》いた。
「こ、殺される前に、一つだけ聞きたいことがある。く、頸をすこし、ゆ、ゆるめて……」
それを聞くと、蠅男はなに思ったか、お竜の方にそれとサインを送った。その効目《ききめ》か、お竜の指の力は、申訳にすこしゆるんだようだ。
「早く云え」
「うむ」と帆村は喘《あえ》ぎ喘《あえ》ぎ「貴様は、なぜあの三人を殺したのだ。鴨下ドクトルと玉屋と塩田先生と、この三人を殺すには定《さだ》めし理由があったろう。それを教えてくれ」
「そのことか」と蠅男はたちまち見るも残忍な面になって、
「冥土《めいど》の土産にそれを聞かせてやろうか。鴨下というエセ学者は、五体揃った俺の身体を生れもつかぬこんな姿にしてしまった。自分のために、他人の人生を全然考えないひどい野郎だ。それを殺さずにゃいられるものか。玉屋のやつは余計なおせっかいをしやがったため、俺は永い間牢獄につながれるし、死刑まで喰った。俺が南洋で西山を殺したのは、金に目がくらんだためばかりではなかった。彼奴《あいつ》は、俺に勘弁ならない侮辱を与えたんだ。その復讐をしてやったのだ。塩田検事は、俺を死刑にしても慊《あきた》らぬ奴だと、ひどい論告を下しやがった。それがために、俺は無期の望みさえ取上げられてしまったのだ。どうだ、お前と俺とが入れかわっていたと考えてみろ。お前もきっと俺のようにしたに違いないんだ」
なんという恐ろしい告白だろう。一応条理はたっているつもりで、悪いと思うどころか平然と殺人をやって悔いないとは、正に鬼畜の類であった。
「まだ、やるのか」
「まだまだやっつける奴がいる。さしあたりお前をやっつけてやる」
「いつも脅迫状につけてあった、あの気味のわるい手足を※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]がれた蠅の死骸は?」
「分っているじゃないか。手足のない俺のサインだ」
帆村は、すっかり観念したように装いながら、実はしきりと時間の経過するのを待っていたのだ。あまり長くなると、きっと連れの楢平が怪しんでこの砂風呂に入ってくるだろうから、そのとき騒げば助かるかもしれないと思っていたのだった。
「あの巧妙な手や足はずいぶん巧妙にできているが、一体何と何との働きをするんだ」
「あれはこうだ。まず右手の腕には……」
と、蠅男はついいい気になって、自分の巧妙な義手の話をはじめた。それを帆村は、さっきから待っていたのだ。突然彼は、
「えいッ」
と叫ぶなり、満身の力をこめて、砂の上にガバとうつ伏せになった。
「ああッ」
とお竜が叫んだときは、もうすでに遅かった。帆村の力にひかれて、お竜は強く前の方にグッとひかれ、ヨロヨロとなったところを帆村はすかさず、さっと身をうしろに開いたから、大きなお竜の身体は見事に背負い投げきまって、もんどりうって前に叩きつけられ、したたか腰骨を痛めた。それも道理であった。帆村はお竜の身体が、蠅男の首の真上に落ちかかるよう、うまい狙いをつけて、一石二鳥の利を図ったのだ。
「あッ、危いッ」
と蠅男が悲鳴をあげたが、既にもう遅かった。蠅男の首はズブリと砂の中にもぐりこんだ。
素晴らしい転機であった。
帆村の沈勇は、よく最後の好機をとらえることに成功し、辛《かろ》うじて死線を越えた。
帆村の身体は、いまや軽々と自由になった。
砂の中にもぐりこんだ蠅男の苦しそうな呻き声。だが不死身の蠅男のことであるから、そう簡単に、砂の中で往生するかどうか。
蠅男は、まるで怒った牡牛のように暴れだし、あたりに砂をピシャンピシャンとはねとばした。この怪魔に対し果して帆村に勝算ありや!
輝《かがや》かしい凱歌《がいか》
お竜が腰をおさえ、歯をくいしばっているのは、帆村にとってたいへん幸いだった。
帆村は素速く蠅男の背後にまわると、湯|交《まじ》りの砂の中にもがく蠅男を、うしろからグッと抱きあげた。
「ううぬ」
と蠅男は満身の力をこめて、抱えられまいと蝦《えび》のようにピンピン跳ねまわった。これを放してはたいへんである。帆村は両腕も千切れよとばかり、不気味な肉塊を抱きしめた。
蠅男は蛇のように首を曲げて、帆村の喉首に噛みつこうとする。
「もうこっちのものだ。じたばたするだけ損だぞ」
この言葉が蠅男の耳に入らばこそ、怪魔はなおも激しく抵抗する。さすがの帆村も、その大力に抗しかねて、押され気味となった。
だが帆村にはまだ、自信があった。
彼は蠅男を抱きしめたまま、悠々と砂風呂の出入口から外へ出た。そして足早につつーッと走ってプールのある広間に駆けこんだ。
「皆さん、蠅男をつかまえましたッ」
というなり帆村はそのまま、ザンブリと熱湯満々たるプールの中にとびこんだ。
「うわーッ」
と、これは蠅男の悲鳴だ。
帆村の作戦は大成功をおさめた。義足義手をつけては天下無敵の蠅男も、帆村に抱きしめられて暴れるたびに、ズブリズブリと水雑炊ならぬ湯雑炊をくらってはたまらない。二度、三度とそれをくりかえしているうちに、蠅男は、だんだんと温和しくなっていった。
「さあ皆さん。住吉署に電話をかけて下さい。署長さんに、帆村がここで蠅男をおさえていると伝えて下さい」
この場の唐突《だしぬけ》な乱闘に、プールから飛びあがって呆然としていた入浴客は、ここに始めて、目の前の活劇が、いま全市を震駭《しんがい》させている稀代の怪魔蠅男の捕物であったと知って、吾れにかえって大騒ぎをはじめた。
帆村が、この何処に置きようもない重い肉塊を抱えて、腕がぬけそうに疲れてきたときに、やっと正木署長をはじめ、警官の一隊がドヤドヤと駆けこんでくれた。
「どうした帆村君。いよいよ蠅男を捕えよったかッ」
「はア、ここに抱いて居ります」
「なにッ」と署長は目をみはり、「おおそれが蠅男か。想像していたよりも物凄いやっちゃア。待っとれ。いま皆におさえさせる。そオれ、掛れッ」
署長がサッ
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