と手をあげると、警官たちは靴のままプールの中にザブンと飛びこんできた。
「オヤ、――」
 と近づいた警官が愕きの声をあげた。
「蠅男は死んどりまっせ」
「ええッ、――」
「こっちへ取りまっさかい、帆村はん、手を放してもよろしまっせ」
「そオれ、――」
 警官隊の手にとって抱きとられた怪人蠅男の肉塊は、蒟蒻《こんにゃく》のようにグニャリとしていた。そして口から頤にかけて、赤い糸のようなものがスーッと跡をひいていた。血だ、血だ!
「舌を噛みよったな。ええ覚悟や」
 と、いつの間に来ていたのか、正木署長が沈痛な声でいった。
「ああ、とうとう蠅男は死にましたか」
 そういった帆村は、はりつめた気が一度にゆるむのを感じた。
「おッ、危い。どうしなはった、帆村はん」
 鬼神のように猛《たけ》き帆村だったけれど、蠅男の自殺を目のあたりに見た途端《とたん》、激しい衝動のために、遂に意識をうしなって、警官たちの腕の中に仆れてしまった。
「無理もない。蠅男と、徹頭徹尾闘ったのやからなア」
 そういって正木署長は、ソッと帆村の腕を握って脈をさぐった。
     *
 もちろん帆村は、間もなく意識をとりかえした。そしてあとは元気に、蠅男事件の後始末に力を添えたのであった。
 その後になって、当時までまだ誰にも知られなかった無慚《むざん》な一つの事件が明らかにされた。それは事件の途中から行方不明になっていた池谷医師の屍体が、彼《か》の控家の天井裏から発見されたことであった。彼は蠅男のために、そこに手足の自由を奪われたまま監禁されていたのだった。そして誰も食料を搬《はこ》ぶ者がなかったままに、とうとう餓死してしまったものである。これも蠅男の残忍性を語る一つの材料となった。
 池谷医師は、蠅男のような悪人ではなかった。ただ彼は蠅男から、一つの弱点を握られていたのであった。それをいうと、またくどくなるが、要するに蠅男の情婦お竜と昔関係のあった仲で、お竜は彼のために捨てられた女だったといえば、あとは誰にもそれと察しがつくであろう。彼はそんなことで、心ならずもある期間は蠅男やお竜と行動を共にしていたのである。
 それはその年も押しつまって、きょう一日の年の暮だというその日の朝、大阪駅頭に珍しく多数の警察官を交《まじ》えた見送りをうけつつ、東京行の超特急列車「かもめ」号の二等室で出発しようとする一組の新夫婦があった。
「では、お大事に」
「新家庭は、いよいよ新しい年とともに始まるというわけだすな」
「まあ近いうち、お二人揃って大阪へ里帰りするのでっせ」
 などと、朗らかな餞《はなむ》けの言葉はあとからあとへと新郎新婦の上に抛《な》げられる。
 やがて、列車は出るらしく、ホームのベルはけたたましく鳴りだした。
 そのとき人の垣をわけて、車窓にとびついた一人の紳士があった。これは村松検事だった。
「ああ、間にあってよかった。君たちの結婚を祝おうと思って、大きなデコレーションケーキを注文して置いたのが、ばかに手間どってネ。これなんだよ、やっと出来た」
 と、車窓にさしだしたのは、大きな硝子《ガラス》器に入った見事なケーキだった。
「よく見てくれ、これは君たちの好きな大阪名物の岩おこしで組みたててあるんだが、一かけずつ製造所がちがっていて、味もちがっているのだ。これを二人で仲よく食べながら、たまにゃ大阪のことも思いだしてくれたまえ」
 若き夫婦は、感激のいろを現わして、この素朴ながら念の入った贈物を感謝した。
 ベルの音がハタと止った。いよいよ発車である。見送りの人たちは、いいあわせたように両手をあげて、二人の新しい生活の門出に万歳をとなえた。
「帆村探偵、ばんざーい」
「花嫁糸子さん、ばんざーい」
 いまは夫と仰ぐ帆村荘六とチラリと目を見合わせて、新婦糸子は羞《はずか》しそうにパッと頬を染めた。
 それを望んで、見送り人たちの中から、また大きな賑やかな拍手が起った。
 列車は測《はか》りきれない幸福を積んで、徐々《じょじょ》に東へ動きだした。



底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
   1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「講談雑誌」
   1937(昭和12)年1月号〜10月号
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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