見されなかったのであった。住吉署の捜索本部には、連日の活動に協力した人々が集っていた。
「どうも弱ったなア。近来投書が、なかなか辛辣になってきましたよ。蠅男なんて、探偵の夢にすぎなかったのではないかなどというのがある」
と、帆村もつい滾《こぼ》せば、
「大阪府の警察で間に合わないようなら兵庫県の警察に頼んでみたらどうや、などと書いて来るやつが居る。なんで、隣りの警察の手を借りる必要があるんや。そういわれて腹が立たん者があるやろか」
正木署長も投書のハガキを握ってカンカンに怒っていた。
ひどい者になると、小包郵便で坊主枕を送ってきた。その附け文句に、
「こっちは枕を高うして睡られへんさかい、この枕はそっちへさし上げます。警官さんはお昼寝にお夜寝ばかりにお忙しいんだっしゃろから枕もさぞ痛みますやろ。そのときは御遠慮なく、この枕をお使い遊ばせ」
村松検事がこれを見て熊《くま》の胆《い》をなめたような顔をした。
「これは投書にしても、最悪性《さいあくしょう》のものだ。警察官侮辱も、実に極まれりというべきだ」
どうやら検事も、本当に怒っているらしい。
帆村も、この枕の小包には呆《あき》れるより外なかった。彼は差出人の悪意の籠《こも》るその美しい坊主枕をとりあげて、つくづくと眺め入った。
「オヤ、――」
と、彼はそのとき叫んで、枕に耳をソッと当てた。
「これはいかん。皆さん早く逃げて下さい」
そう叫ぶと、帆村は脱兎のように窓際にかけだした。そして川に面した硝子窓をガラリと明けるが早いか、手にしていた美しい坊主枕をエイッと川の中へ投げこんだ。
「どうした」
「どうしたんや」
と、皆はかえって帆村の方に駆けよってきた。そのときだった。
どどーン。
川中に、時ならぬ烈しい爆音が起り、枕を投げこんだところに、水煙が一丈もドーンとうちあげられた。
「呀《あ》ッ、――」
「ば、爆弾やあれへんか」
署員は悉《ことごと》く窓にかけよって、なおも大きく息をする河面を凝視した。
「爆弾仕掛の枕なんですよ」と帆村が汗をぬぐいながら説明した。「枕を持ってみると、コチコチと変な音がするので気がついたのです。なアに、よくあるやつですが、時計仕掛の爆弾ですよ。僕たちを皆殺しにしようと思ってたに違いありません」
「なんちゅう悪たれの市民やろ。断然取締らんとあかん」
「いや、これは市民といっても、普通の市民じゃありません」
「普通の市民でないちゅうと、――」
「つまり、これは蠅男が差出した小包なんですよ」
「うむ、な、なるほど」
一同はいまさらながらに、狂暴な蠅男のやり方に憤慨《ふんがい》の色を示した。
怪《あや》しき女
「おい帆村君。僕はまた君のおかげで命拾いをした。お礼をいう」
と、村松検事は、帆村の手を固く握った。
「帆村はん。私もお礼をいわしとくんなはれ」
と、正木署長もうやうやしく頭を下げた。
帆村はゆかしくもそれを冗談と受けながし、
「爆弾の危難は助かりましたから、それはいいとして、ここで考えてみなければならぬのは、蠅男がどうしてこんな精巧な爆弾を手に入れたかということです。こんなものは、どこでも作れるというものではありません。僕の考えでは、蠅男はかねてこんな爆弾を用意してあったのだと思います」
「そうだ。そのとおりだろう。蠅男は孤立した殺人魔だ。ギャング組織ではないと思う」
「それなら正木さん」と帆村は署長の方をふりむき、「僕は蠅男が依然として、鴨下ドクトル邸に出入しているのじゃないかと思いますよ。爆弾は、あの邸内のどこかに隠してあるのでしょう」
「そんなこと不可能だすな」と署長は不服であった。「警戒は屋内屋外にあって厳重にしとるのでっせ。そして邸には、ドクトルの遺児カオルはんと許婚《いいなずけ》の山治はんが、無事に暮しとりますんや。もし蠅男が入りこんだのやったら、どこかで誰かが見つける筈だすがな」
「いや、この爆弾を見ては、僕はどうしても蠅男が、ドクトル邸の秘密倉庫なんかに出入しているとしか考えられんです」
「秘密倉庫? そんなものが、どこかに拵《こしら》えてありますのか」
「もちろん僕の想像なんです。なお僕は、この小包を見て考えました。蠅男は、あまり遠くへいっていないということです」
「それはまた、なんです」
「小包の消印を見ましたか。あれは郵便局で押したものではなく、手製の胡魔化《ごまか》しものですよ。だからあの小包を持って来た郵便局の配達夫というのは、恐らく蠅男の変装だったにちがいありません。蠅男に対する監視は厳重なんですから、蠅男がここへ出てくるようでは、その辺に潜伏しているのに違いありません」
「そんなら、この小包を持って本署に来た配達夫が蠅男やったんか。そら、えらいこっちゃ。追跡させんならん」
「署長さん、もう遅いですよ。いまごろ蠅男は、どっかその辺の屋上に逃げついて、そこからこっちの窓を見てニヤッと笑っているでしょう」
「そうか、残念やなア」
蠅男が近所に潜《ひそ》むという帆村の推理に、村松検事も賛成の意を表した。
それではというので、すぐさま捜査隊が編成せられて、一行は直ちに鴨下ドクトル邸に向った。
厳重な捜査の結果、帆村の云ったとおり、はたして秘密倉庫が地下に発見せられた。それは、勝手許の食器棚のうしろに作られていたもので、ボタン一つで、自由にあけたてできるようになっていた。
一行は、いまさらのように愕いたが、中に入ってみて二度びっくりした。倉庫の中には、まだ五つ六つの爆弾やら、蠅男が使ったらしい工具や材料が一杯入っていた。
「さあ、そういうことになると、蠅男はどないして、ここへ出入したんやろ。そいつを調べなあかん」
正木署長は俄《にわ》かに奮《ふる》いたって、取調べを始めた。カオルも山治も、蠅男らしい人物がこの家に出入していない旨を誓った。
警戒中の警官も、同じことを証言した。
お手伝いさんが一人と、派出婦が一人といるが、お手伝いさんも知らぬと答えた。このお手伝いさんは城の崎の在から来ている人で、先日まで近所の下宿で働いていた身許確実な女だと知れた。
派出婦は、生憎《あいにく》外出していた。これは身許もハッキリしていなかった。年齢の頃は二十三、四。名前は田鶴子《たずこ》といった。顔は丸顔だという。
「田鶴子――というんだネ」
この田鶴子なる派出婦は、一行が到着する直前、ちょっと薬屋に買物にゆくといって出ていったそうだが、それがなかなか帰って来なかった。そこで警官の一人を、その薬局へ派遣して調べさせることにした。
間もなくその警官が帰ってきて、
「近所の薬屋を四、五件調べてみましたんやけれど、どの家でも、そんな女子は来まへんという返事だす。けったいなことですなア」
帆村はそれを聞くと、ポンと膝を叩いた。
「呀《あ》ッ。わかりましたよ。その田鶴子という派出婦は、もう二度とこの家にかえってきませんよ」
「なぜだい」検事が聞いた。
「いや、その田鶴子という派出婦は、蠅男の情婦のお竜《りゅう》が化けこんでいたに違いありません。蠅男では、到底《とうてい》入りこめないから、そこでお竜が化けこんで、秘密倉庫のなかのものを持ち出していたんです。丸顔といいましたネ。お竜を見た人間は、そう沢山いないのです。僕は宝塚で二度も見かけて、よく知っています。正にお竜にちがいありません」
「な、なんという大胆な女だろう」
「さあ皆さん、これによっても、蠅男はいよいよこの附近に潜伏していることが明白になったじゃありませんか。一つ元気をだして、蠅男を探しだして下さい」
帆村の言葉に、一座は急にどよめいた。
地下に潜る
こうなったら、死闘である。
恐るべき機械化された殺人魔を、一日いや一時間でも早く捕えることが出来れば、どれだけ市民は安堵《あんど》の胸をなでおろすか測りしれないのである。
帆村は、とうとう意を決して、警察側と全然|放《はな》れて、巷《ちまた》に単身、蠅男を探し求めて、機をつかめば一騎うちの死闘を交える覚悟をした。
それを決行するに当って、糸子の小さな胸を痛めないようにと、帆村は彼女の家を訪ねて事態を説明した。
糸子は帆村がこの上危険な仕事をすることに忠言を試みたけれど、彼の決意が、市民を一刻も早く安心させたいという燃えるような義侠心《ぎきょうしん》から発していることを知ると、それでも中止するようにとは云えなかった。
「帆村はん。これだけは誓うとくれやす。必要以上に、危険なことをしやはらへんことと、それからもう一つは、――」
「それからもう一つは?」
「それからもう一つはなア、一日に一度だけは、うちへ電話をかけとくんなはらんか。そうしたら、うち安心れて睡られます。よろしまんな」
「はッはッ、まるで坊やとのお約束みたいですが、たしかに承知しました。ではこれで、僕はかえります」
「あら、もう帰ってだすの。まあ、気の早い人だんな。いま貴郎《あなた》のお好きな宇治羊羹を松が切っとりまんがな。拝みまっさかい、どうぞもう一遍だけ、お蒲団の上へ坐って頂戴な」
糸子は、真剣な顔をして、いっかな帆村を帰そうとはしなかった。
帆村は予定どおり、夜の闇にまぎれて、浮浪者姿で天王寺公園に入りこんだ。
「こらッ、お前なんや?」
乾からびた葡萄棚の下に跼《うずくま》ったとき、ロハ台に寝ていた男がムクムクと起きあがって、帆村に剣突《けんつく》をくわせた。
「ああ、おらあ新入りなんだ。こっちの親分さんに紹介してくれりゃ、失礼ながらこいつをお礼にお前さんにあげるぜ」
「な、なんやと。お前、東京者やな。おれに何を呉れるちゅうのや」
帆村は五十銭玉を掌の上にのせてみせた。かの男は、たちまち恵比寿顔《えびすがお》になって、いやに帆村の機嫌をとりだした。
「ふーン、わしに委《まか》しといたらええねン。大丈夫やがナ。親分の名は藤三《とうぞう》いうのや。紹介したる、さあ一緒についてこい」
楢平《ならへい》という男の案内で、帆村は藤三親分の配下に臨時に加えて貰うことになった。
彼はここでも、いささか金を親分に献上することを忘れなかった。
「あんまりパッパッと金を使うのはあかんぜ」
と、早速《さっそく》親分らしい注意をした。
「へえ、相済みませんです」
それから藤三親分は、帆村にいろいろと仲間の習慣の話や、縄ばりのこと、持ち場などについて、こまごました注意を与えたのち、
「さあ、これは今夜の、わしからの引出物や。これを一枚、お前にやる」
と云って、一枚の紙札をくれた。
帆村が何だろうと思ってみると、それは新別府温泉プールと書いた一枚の入浴券であった。
「へえ、どうもこれは、――」
「今夜入ってきたらええやないか。そこは十日ほど前に建った大浴場兼娯楽場や。もちろんぬかりはあらへんやろが、わし等の行く時間は、午後十二時を廻ってからでやぜ。忘れんようにな。楢平にも、これを一枚やる」
親分は二枚の入浴券を下された。
帆村にとっては、甚《はなは》だ迷惑なことであった。そんなことよりも、早く蠅男の所在を探したいのだった。だが親分さまからの折角の下され物である。行かねば、後の祟《たた》りの恐ろしさも考えねばならない。やむなく帆村は、その新別府温泉プールなるものに、楢平とともにでかける決心をした。
だが、まさか其処《そこ》に、たいへんなものが待ち構えていようとは、ついぞ気がつかなかったのである。
砂風呂の異変
楢平と帆村とは、恐《おそ》る恐《おそ》るその新別府温泉プールの入口へ切符を出してみた。
プールでは、なんと思ったか、たいへん鄭重《ていちょう》に二人の入来を感謝してくれた。それも一に藤三親分の偉力《いりょく》のせいであろうと思われた。
裸になって浴場へ足を入れてみると、なるほどこれは、入浴ずきの大阪人でなければ、ちょっと出来そうもない広大なる共同浴場であった。その中央に、大理石で張りめぐらされた直径十メートルの円形のプールが作ってあった。そのまわりも広い大理石の洗
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