しては置けねえ。覚悟しろッ」
「なにをッ。――」
鬼神「蠅男」と探偵帆村とは、何も知らずに睡っている糸子を間に挟んで、物凄く睨《にら》み合った。
風か雨か、はた大噴火か。乾坤一擲《けんこんいってき》の死闘を瞬前にして、身構えた両虎の低い呻り声が、次第次第に高く盛りあがってくる。――
死闘
獣か人か。
怪物蠅男の身体は首の付いた痩せ胴とバラバラの手足から組立てられて居たとは、実に前代未聞の一大驚異である。
この蠅男の身体に関する秘密は、まだ十分了解することが出来なかったが、決死の青年探偵帆村荘六は脳底から沸き起ろうとする戦慄《せんりつ》を抑えつけて、厳然《げんぜん》とこの大怪物と睨み合っている。
傍らの椅子には、これまた絵に描いたような麗人糸子が膝に伏せた本の上にすんなりとした片手を置いて、何ごとも知らず安らかに眠っている。どうやら糸子は帆村の命令に従って睡眠剤を服《の》んでいるらしかった。もちろんそれは帆村のやさしき心づかいで、この場の異変にこれ以上彼女の繊細な神経を驚かせたくないという心づかいであったに違いない。
怪物蠅男は、見るもいまわしい土色の面に悪鬼のような炯炯《けいけい》たる眼を光らかし、激しき息づかいをしながら、部屋の隅からじりじりと寝台の向うに立つ帆村探偵に向って近付いて来るのであった。
雨か嵐か、はた雷鳴か。怪人と侠青年との息詰まるような睨み合いが続いた。
「勝負は貴様の負だッ。こうなれば観念して、潔《いさぎよ》く降参しろッ」
と帆村探偵は烈々たる言葉を投げつけた。
「なにを言やがる」と蠅男は歯を噛みならし、
「手前こそ息の止らねえうちに、念仏でも唱えろッ。今度こそは手前の土手ッ腹を機関銃で蜂の巣のようにしてやるんだッ。それでもまだ助かるとでも思っているのか」
そう云って蠅男はじりじりと前進し、垂れている左腕を静かに挙げて、帆村の胸元目がけて突き出した。それは黒光りのする腕のようでありながら、まるでぎこちない銃身のように見えた。
「ははあ、くくり付けの機関銃とお出でなすったね。そんなインチキ銃に撃たれてたまるものか」
「よオし、これを喰って往生しろッ」
と蠅男の大喝《だいかつ》と共に長い黒マントの肩先がブルブルと痙攣《けいれん》するより早く、ダダダッと耳をつん裂くような激しい銃声!
「うぬッ――」
帆村はさっと寝台の蔭に身を沈めた。――と見るよりも早く、蠅男の隙を狙って寝台の下からパッと投げつけた渋色の投網《とあみ》!
網は空間に花火のように開いて、蠅男の頭上からバッサリ落ち掛ったが、蠅男もさるもの、不意を打たれながらもツツーッと身を引けば、網はかちりと蠅男の左腕の中に仕込まれた機関銃に絡《から》み付《つ》いた。
「生意気なッ――」
と蠅男が気色ばむ所を帆村はすかさず、
「えいッ」
と大声もろともすかさず投げ付けた丈夫な撚《よ》り麻の投縄――それが見事蠅男の左腕の中程をキリリと締め上げた。
「さあ、どうだッ」
と帆村は歓声をあげ、気を外さず麻縄の端を寝台の足に通して、それを支えに満身の力を籠めてえいやッと引けば、流石の蠅男も思わずツツーッと前にのめろうとするのを、ウムと堪えて引かれまいと、反《そ》り身になって抵抗するうち、どうしたはずみかドーンと云う大きな響きを打って蠅男の左腕は肩の附根からすっぽり抜け落ち床の上に転がった。
「あッ、しまった――」
と蠅男が鉄の爪を持った残りの右腕を伸ばして床の上の抜けた左腕を拾おうとするのを、帆村はそうさせてはなるものかと寝台の上をヒラリと飛び越し、隠しもっていた桑の木刀でヤッと蠅男の頤《あご》を逆に払えば、
「ギャッ」
とさしもの蠅男も痛打にたまらず、※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と床上に大の字になって引繰り返った。闘いは帆村の快勝と見えた。
「おとなしくしろッ」
と帆村は蠅男のうえに馬乗りになり、いきなり相手の咽喉をグッと締め付けた――それがよくなかった。蠅男にはまだ人間放れのしたもの凄く頑強な右腕の残っていたことを忘れていたのだ。
キリキリキリと怪音を立てて蠅男の右腕が起重機のように三|米《メートル》ばかりも伸びたかと思うと、それが象の鼻のようにくるくるッと帆村の背後に曲って来て、大きな鋏のような鉄の爪が帆村の細首目掛けてぐっと襲い掛らんとする――あッ、危い!
糸子は先程から目を醒ましていた。いくら強い睡眠剤でも、部屋の中で機関銃を撃たれては眠っても居られない。彼女は突然目の前に展開しているもの凄い死闘の光景に呑まれて、魂を奪われた人のように呆然と成行を眺めて居たのである。しかし今愛人帆村の一命に係わる大危機を目の前にしては、どうしてその儘《まま》竦《すく》んでいられよう。彼女は素早く身辺を見廻し、机の上に載って居た亡き父の肖像入りの額面を取上げるより早いか二人の方に駆け寄り蠅男の顔面目掛けて発止《はっし》と打ち下ろした。
「うむッ。――」
と蠅男は呻り声を挙げ、帆村の背後に伸びようとした鉄の爪がわなわなと虚空を掴んだ。
「糸子さん、危いからどいていらっしゃい」
帆村は糸子に注意をした。そこに一寸の隙があった。それを見逃すような蠅男ではなかった。
「えいやッ――」
と蠅男は腹の上に乗っていた帆村を下から座蒲団か何かのようにどんと跳ね飛ばした。
あッと云う間に帆村は宙を一転して運よく寝台の上に叩き付けられたが、若しそこに柔い寝台が無かったら帆村の両眼はぽんぽん飛び出していたかも知れない。
帆村はくらくらする頭を押えて、撥人形のように寝台を飛び降りた。この時素早く起き直った蠅男は右手を伸べて傍《かたわ》らのガラス窓を雨戸越しにバリバリと破り、その穴から化け蝙蝠《こうもり》のようにヒラリと外へ飛び出した。
帆村が続いて外に飛び出して見ると、蠅男は何処へ行ったものか影も姿もなく、戸外には唯ひっそり閑《かん》とした黒暗暗《こくあんあん》たる闇ばかりがあった。
帆村の奇略
その翌朝のことであった。一夜を糸子の家に明かした帆村は、暁を迎えて昨夜の蠅男との恐ろしい格闘を夢のように思った。
全く生命がけの争闘であった。こちらもたった一つしかない生命を賭け、怪物蠅男も亦その時は死にもの狂いで立ち向ったのだった。麗人糸子さえ、男子に優るとも劣らないような覚悟を以て死線を乗り越えたのだ。隙間を漏るる風にも堪えられないような乙女をして、こうも勇敢に立ち向わせたものは何か。それは云うまでもなく、乙女心の一筋に彼女の胸に秘められたる愛の如何に熾烈なるかを物語る以外の何ものでもなかった。
「帆村はん。もうお目醒め――」
と麗人糸子は、憔悴《しょうすい》した面に身躾《みだしな》みの頬紅打って、香りの高い煎茶の湯呑みを捧げ、帆村の深呼吸をしているバルコニーに現われた。
「やあ、貴女ももうお目醒めですか。昨夜は若し貴女《あなた》が居なかったら、僕はこうして夜明けの空気など吸っていられなかったでしょう。うんと恩に着ますよ」
「まあ、なに言うてだんね。帆村はんこそうち[#「うち」に傍点]のため何度も危ない目におうてでして、どないにか済まんことやといつも手を合わせて居ります。こないに帆村はんを苦しめるくらいやったら、うち[#「うち」に傍点]が蠅男に殺されてしもうた方がどのくらいましやか知れへんと思うて居ります」
「何を仰有るのです。まだ蠅男との戦いは終って居ないではありませんか。そんな弱気を出しては、貴女のお父さんの仇敵《かたき》はとても打てませんよ」
と帆村はさり気なく糸子の言外の言葉を外して、ただ一筋に彼女を激励した。糸子はあとは黙って、伏目勝ちに帆村の傍で空になった盆を頻《しき》りに撫でて居た。今更説明する迄もあるまいが、昨夜蠅男を糸子の邸に誘い込んだのも総て帆村の計略だった。彼は蠅男と決戦をする為に態《わざ》とそう云う機会を作ったのだった。最初宝塚ホテルで糸子に「いやらしい人」と腹を立てるよう頼んだのも帆村の計略だった。それから糸子が後ほどホテルの帳場に「帆村さんが帰って来たら蠅男の秘密を言うから来て呉れ」と嘘を言わせたのも彼の計略、それから帆村がウイスキーに酔払って道頓堀で乱暴を働き豚箱に打込まれたのもその計略だった。そこで帆村は、親しい正木署長を呼んで貰って事情を話し、留置場を出して貰うと直ぐに糸子の邸に隠れて、蠅男を迎える準備にかかった。宝塚ホテルの電話は屹度《きっと》蠅男の耳に入るに違いないことは、それ迄の例で分って居たから、それを知れば蠅男はその夜のうちに彼の秘密を知って居ると云う糸子の寝所を襲うだろうとは予期出来ることだった。全くその通りだった。果して蠅男は天井裏を這って侵入し、そこで書斎内で待期して居た帆村探偵とあの激しい死闘を交えるに至ったものであった。
しかし折角の帆村の奇襲作戦も蠅男の超人的腕力に遭ってはどうすることも出来ず、遂に闇の中に空しく長蛇を逸してしまった形だ。さて今や怪物蠅男は何処に潜んで居るのだろう?
唯一つ茲《ここ》に帆村を心から喜ばせたものは、蠅男の落として行った機関銃仕掛の左腕であった。帆村はそれを見せるために、糸子を部屋の中に誘った。
「ごらんなさい。糸子さん。恐ろしい仕掛のある鉄の腕です。こっちを引張れば、生きた腕と全く同じように伸び縮みをするし、こう真直にすれば、機関銃になるんです。まだあります。ほらごらんなさい。弾丸《たま》の代りに、こんな鋭い錐《きり》が吹き矢のようにとびだしもするし、その外ちょっと重いものなら、ここにひっかけてパチンコかなどのように撃ちだせる。――」
帆村は不図《ふと》気がついて顔をあげた。糸子が嗚咽《おえつ》しているのだった。
「どうしました」といったが、そのとき帆村はハッと気がついた。「そうだ、この錐なんですよ、あなたのお父さまの生命を奪ったのは……」
糸子はそれに早くも気づき、哀《かな》しい追憶に胸もはりさけるようであったのだ。帆村はいろいろと彼女を慰めることにひと苦労もふた苦労もしなければならなかった。
実は帆村は、まだそれ以上の蠅男の凶器を知っていた。それはその抜け腕の或るところに大豆が通り抜けるほどの穴が腕に沿って三、四個所も明いていたが、ここには元、鉄の棒が入っていたのだ。その棒は彼が拾ってもっていた。あの宝塚の雑木林の中で拾った先端にギザギザのついたあの棒である。あのギザギザは、蠅男が左腕を長く前に伸ばすときに、ちょうど折畳式の写真機の脚をのばすような具合に腕の中からとび出してくる仕掛になっていることに今になって気がついたのである。あの林の中で、蠅男は不注意にも、あれの脱けおちたのに気がつかなかったのだった。しかしあの鉄の棒を拾ったときに、まさかこんな奇怪なカラクリが蠅男の腕にあろうとはさすがの帆村探偵も気がつかなかった。考えれば考えるほど恐ろしい怪物だった。
一体このような恐ろしい怪物がどうして生れたんだろう? それはちょっと解くことのできない深い謎だった。
帆村は蠅男の左腕を前に置いて、ジッと深い考えに沈んだ。それからそのいつもの癖《くせ》で、彼はやたらに莨《たばこ》を吸って、あたりに莨の灰をまきちらした。
「うむ、そうだった」と、何事かに思いあたったらしく彼は突然|呟《つぶや》いた。「これはやはり、蠅男がこれまで通ってきた道を、はじめからもう一度探し直してみる必要がある。蠅男が最初名乗りをあげたのは何処だったか。それは無論鴨下ドクトルの留守中、その奇人館のストーブの中に逆さに釣りさげられていた焼屍体に発しているんだ。あのとき蠅男は、新聞紙を利用した脅迫状に、はじめて(蠅男)と署名をしたのだった。第二の犠牲者は玉屋総一郎、第三の犠牲者は塩田元検事と、ちゃんと身柄が判明しているのに、ああそれなのに奇人館に発見された焼屍体の身許が今日もなおハッキリしていないのは変ではないか。すべて連続的な殺人事件には、必ず何か共通の理由がなければならぬ。蠅男はなぜ三人の人を殺したか。そうだ。その殺
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