人の理由は第一の犠牲者の身許がハッキリさえすれば、ある程度解けるにちがいない。うむ、よオし。それを知ることが先決問題だ。では、これから奇人館に行き、鴨下ドクトルに逢って、手懸りを探しだそう」
帆村珠偵は、何かに憑《つ》かれた人のように血相かえて立ち上ると、それを心配して引きとめる糸子の手をふりはらって、外へとびだした。
果して彼は奇人館に於て、何を発見する?
大戦慄
帆村探偵が、住吉区岸姫町の鴨下ドクトル邸を訪れてみると、そこの階下《した》の応接室には、先客が三人も待っていた。それは大阪へ来たついでに楽しい近県旅行をしていたドクトルの一人娘カオルと情人上原山治と、外に正木署長との三人だった。カオル達は、約束どおりに、帰阪するとすぐさま署へ出頭し、そこで此の前は不在だった父親ドクトルに連れ立って会いにきたものであることが分った。
帆村の名刺も、雇い人の手で二階の研究室にいるドクトルに通じられたが、その返事は、逢うには逢うが、いま実験の途中で手が放せないから暫く待っていてくれとのことだった。
「カオルさんは今度お父さまにまだひと目も会っていないのですか」
と、帆村は座が定まると、ドクトルの令嬢に尋ねた。
「さっきチラリと廊下を歩いている父の後姿を見たばかりですわ」
「そうですか。幼いときお別れになったきりだそうですが、お父さまの姿には何か見覚えがありましたか」
と問えば、カオルは首飾りをいじっていた手をとめ、ちょっと首をかしげて、
「どうもハッキリ覚えていませんのですけれど、幼《ちいさ》いときあたくしの見た父は、右足がわるくて、かなりひどく足をひいていたようですが、今日廊下で見た父は、それほど足が悪くも見えなかったので、ちょっと不思議な気がいたしましたわ」
「ほうそうですか。ふうむ」
と、帆村は腕組をして考えこんだ。
そのとき正木署長のところへ電話がかかってきたとかで、雇い人に案内されて出ていった。が、すぐ署長はとってかえして、急用が出来たから署へ帰る。しかしすぐまた此処へ出直すから後をよろしくと帆村にいってアタフタと出掛けていった。
あとは三人になった。
「するとカオルさん。貴方はなにかお父さまの身体についていた痣とか黒子《ほくろ》とか傷痕とかを憶えていませんか」
と、何を思ったものか帆村はさきほどから熱心になって、カオルに話しかけたのであった。
「さあ、そうでございますネ」とカオルはしきりと古い記憶を呼び起そうと努力していたが、「そうそう、あたくし一つ思い出しましたわ」
「ふうむ。それは何ですか」
と、帆村は思わず膝をのりだした。
「それは――」
とカオルが云いかけたとき、雇い人が急いで室内にはいってきて、ドクトルがこれから二人に会うからすぐに二階へ来てくれと伝言をもってきた。カオルは遉《さす》がにパッと眸《ひとみ》を輝かし、十五、六年ぶりに瞼の父に会える悦びに我を忘れているようであった。
カオルと山治とが席を立って、二階へ上っていくのを見送った帆村は、ただ一人気をもんでいた。若き二人をドクトルの部屋にやることがなんとなく非常に不安になってきた。といって、呼ばれもせぬ彼が、後から追いかけてゆくのも変である。帆村はイライラしながら、全身の注意力を耳に集め、なにか階上から只ならぬ物音でも起りはしないかと、扉のかげに寄り添い、聞き耳たてていた。
一分、二分と経ってゆくが、何の物音もしない。これは自分の取越苦労だったかと、帆村が首を傾けた折しも、「帆村はん。先生が二階でお呼びだっせ。すぐ会ういうてはります」
と、三度雇い人が、室内に入ってきた。帆村はハッと思ったが、強いて平静を装い、先に案内に立たせ、二階へ上っていった。
「よう、帆村荘六君か。大分待たせて、すまんかったのう。さあ、こっちへ――」
と、黒眼鏡をかけ、深い髯の中に埋った鴨下ドクトルの顔が、階段の上で待っていた。帆村はドクトルのその声の隅に、何処か聞き覚えのある訛《なま》りを発見した。
ドクトルは帆村を案内して、書斎のなかに導き入れた。帆村はその部屋の中を素早く見廻して、先客である筈の二人の若き男女の姿を求めたが、予期に反してカオルの姿も山治の姿も、そこには見えなかった。
ドクトルは入口の扉をガチャと締めながら、
「まあ、そこへお掛け。きょうは何の用じゃな」
と、皺枯《しゃが》れ声でいった。
帆村は、中央の安楽椅子の上にドッカと腰を下ろし、腕組をしたまま、
「きょうは一つ貴方に教えていただきたいことがあって参ったのです」
「ナニ儂に教えて貰いたいというのか。ほう、君も老人の役に立つことが、きょう始めて分ったのかな」
「その老人のことなんですよ」と帆村は薄笑いさえ浮べて、
「つまり鴨下老ドクトルを階下のストーブの中で焼き殺した犯人は誰か? それを教えて貰いたい」
「何を冗談いうのじゃ。鴨下ドクトルは、こうして君の前に居るじゃないか。血迷うな。ハッハッハッ」
生きている鴨下ドクトルに、鴨下ドクトル殺しの犯人を尋ねるというのは狂気の沙汰だった。帆村探偵は遂に逆上をしたのであろうか。
「言うなッ」と帆村は大喝してドクトルを睨《にら》みつけた。「なんだ、その貴様の左腕は何処へ置き忘れて来たのだッ」
「呀《あ》ッ、こいつを知られたかッ」
と、ドクトルはブラブラの左腕の袖を後に隠したが、もう遅かった。
「さあどうだ、蠅男! 化けの皮を剥いで、両手をあげろッ。無い方の手も一緒に挙げるんだ」
と、ピストルを擬して帆村は無理なことをいう。
「うわッ、はッはッ」
と、蠅男は附け髯のなかから哄笑した。
「手前こそ、今度こそは本当に念仏《ねんぶつ》を唱《とな》えるがいい。この室から一歩でも出てみろ。そのときは、手前の首は胴についていないぞ」
蠅男は、大蟹《おおがに》のような右手の鋭い鋏をふりかざして恐れ気もなく帆村に迫ってきた。
今や竜虎《りゅうこ》の闘いである。悪竜《あくりゅう》が勝つか、それとも侠虎《きょうこ》が勝つか。生憎《あいにく》と場所は敵の密室中である。部屋の入口には鍵が懸っていた。
落ちた仮面
「此奴《こいつ》がッ――」
ドドンと帆村は敢然《かんぜん》引き金を引いた。今や危急存亡《ききゅうそんぼう》の秋《とき》だった……
「うわッはッはッ」
人を喰った笑い声もろともアーラ不思議、蠅男の身体がドーンと床の上に仆れるが早いか、ガチャガチャと金属の摺れあう音がして、蠅男の胴と手足がバラバラになった。
「呀ッ!」
と帆村の逡《たじろ》ぐ前に、バラバラになった蠅男の五体は、まるでその一つ一つが独立した生き物のように、物凄い勢いでクルクルと床上を匍いまわり、次第次第に帆村の身近く迫ってくるのであった。勇猛な帆村探偵も、この勝手のちがった相手の攻勢に遭って、手の出し様がなかった。クルクル廻る蠅男の首を狙うべきか、脚を抑えるべきか。
帆村は咄嗟《とっさ》にヒラリと安楽椅子の上にとび上った。そして手にしたピストルを下に向けて、ドドドーンと乱射した。
「ぎゃッ。――」
と、途端《とたん》に聞ゆる悲鳴、素破《すわ》ピストルの弾丸が命中したかと思った刹那《せつな》、傍らの壁に突然ポッカリと丸窓のような穴が明き、蠅男の右腕がまずポーンと飛びこむと、続いて首と胴が、更に鋼条でつながれた二本の義足が、蛇が穴に匍いこむようにゾロゾロッと入ってゆく――。
「こら、待てッ。――」
と、帆村はピストルを其の場になげだし、折しも穴を潜ろうとする蠅男の一本の足に素手で飛びついた。そうはさせじと蠅男の脚は、恐ろしい力で穴の中へ帆村の身体もろとも引張りこもうとする。エイヤエイヤと、とんだところで蠅男と帆村との力較べが始まったが、やがてギィーッと奇異な音がして帆村探偵は呀ッという間もなくドーンとうしろにひっくりかえる。
パタンと丸窓の閉まる音。
ムックリ起き上った帆村の手には、奇妙な物が残った。それは人間の足首そっくりに作られた鋼鉄とゴムとを組合わせた左の義足だった。
帆村は死人のように青褪《あおざ》め、この奇妙な分捕品を気味わるげに見入った。
折よくそこへ、正木署長が一隊の腕利きの警官をひきつれて駈けつけ、扉《ドア》を蹴破ってくれたので、帆村は蠅男の追跡を署長に委せ、彼は暫くの休息をとるために、室内の安楽椅子に腰を下ろして汗をふいた。
「なんという怪奇!」
帆村は疲労を一本の莨にもとめて、うまそうに紫煙をくゆらせながら、呟いた。今しがたのあの恐ろしい格闘の光景を思い出すと、また急に気が遠くなりそうであった。彼は随分これまで狂暴な殺人犯人にも出会ったが、いくら狂暴でも獰猛《どうもう》でも、この怪奇なる組立て人間「蠅男」に較べると作り物の大入道ほども恐ろしくはなかった。怪物蠅男の出現は、人間の常識を超えている! 神か、魔か? どうしてこんな奇異な人間が存在し得るのか?
それにしても、蠅男が鴨下ドクトルに化けていたのを今迄誰も知らなかったとは、なんという迂濶《うかつ》なことだろうか。帆村も、それを真逆今日になって発見しようとは考えていなかった。丁度旅から帰ってきた鴨下カオルと上原山治と一度会ったとき、不図《ふと》放った帆村の質問から、偽《にせ》ドクトルの仮面が剥《は》げはじめたのである。しかもその話の最中に二人の若き男女は、偽ドクトルに呼ばれて、この階上に来た筈であるが、怪しくも何処へ行ったものか、影さえ見えない。帆村はそれを蠅男の狂悪性と結びあわせて、思わずブルブルと身慄いを催した。
「こうしちゃいられないぞ」
帆村は吸いつけたばかりの二本目の莨を灰皿に捨てて、スックと立ち上った。蠅男の正体も調べたいが、若き二人の安危が更に気に懸る。
彼は書斎を調べて廻ったが、思うようなものにぶつからなかった。そこで廊下に走りでて、両側に並んでいる室々を片っぱしからドンドンと叩いて廻った。
すると、果して一つの部屋のうちから、微《かす》かではあったが、人間の呻《うめ》くような声を耳にした。その部屋はかつて蠅男が帆村を狙いうちにした暗い部屋だった。
扉を蹴破ってみると、果してその小暗い室内に、洋装のカオルと山治とが荒縄でもってグルグル巻きに縛り合わされていた。
帆村は愕いて、すぐさま二人の戒《いまし》めの縄を解いてやった。
二人は再生の悦びを交々《こもごも》のべた後で、偽の父と見破った瞬間に、忽ちこんな目に合ってしまったことを説明した。帆村は、それこそ怪物蠅男が化けていたのだ、といえば山治は、
「――その蠅男は、僕たちが階下《した》の応接室で喋っていたことを、マイクロフォン仕掛で、すっかりこっちで聞いていたんだって云っていましたよ」
「そうなんですのよ。あたくしが父の身体の特徴について、貴方に申上げようとしたので、それを喋られては大変と愕いてこの階上に呼びあげたのですわ。あたくしも、もうすっかり覚悟をしてしまいました。父は蠅男のためにストーブの中で焼き殺されたに違いありませんわ」
「なるほど、あの焼屍体の半焼けの右足の拇指が半分ないのは、お父さまの特徴と一致するというわけですね」
カオルはそれに応える代りに、はふり落ちる泪を手で抑えつつ大きく頷《うなず》いた。無慚《むざん》な最期を遂げた亡き父に対する悲しみが、今や新たに泪《なみだ》を誘ったのに相違なかった。
「お嬢さん。ドクトルはどうして蠅男に殺されるようなわけがあったのでしょうネ」
と、帆村が率直に質《たず》ねると、カオルは泪に泣きぬれた白い面をあげて、
「さあそれが、あたくしには一向心当りがございませんのです」
「うむ、貴方にもやはり分りませんか」
帆村は、また一つ希望を失った。
だが根本によこたわる彼の信念は微動もしなかった。蠅男の兇刃《きょうじん》に斃《たお》れた鴨下ドクトル、それから富豪玉屋総一郎、最近に元検事正塩田律之進――この三人は、何か蠅男から共通の殺害理由をもちあわしていたに違いないということだ。その殺害理由を探し出すことが、この大事件を解決す
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