てしもたがな」
 そういって、大川司法主任は、新聞紙の上を大きな掌でもってピチャピチャと叩いた。
 帆村は、それには相手になろうともせず、室の中を指《ゆびさ》して、
「どうです。糸子さんは無事ですかネ」と訊いた。
「もちろん大丈夫だすわ。しかし昨夜も、えろう貴方はんのことを心配してだしたぜ。村松はんのことがなかったら二人して貴方はんに奢《おご》って貰わんならんとこや。ハッハッハッ」
 大川主任はいい機嫌で哄笑した。
 室のなかに入ってみると、糸子はもうすっかり元気を回復していた。ただ、まだ麻酔薬が完全にぬけきらないと見えて、いく分睡そうな顔つきは残っていたが……。
「まあ帆村はん。さっきの夢のつづきやのうて、ほんとの帆村はんが来てくれはったんやなア」
 糸子は、けさがた帆村の夢を見ていたらしく、帆村の顔を見て小さい吐息をついた。
 糸子があつく礼をいうのを、帆村は気軽に聞きながして、
「さあ、ここでちょっと糸子さんに折入って話をしたいことがあるんです。皆さん、ちょっと遠慮して下さいませんか」
 そういう帆村の申し出に、付き添いのお松をはじめ、看護婦や警官たちもゾロゾロと外へ出た。扉がピタリと閉って部屋には帆村と糸子の二人きりとなってしまった。
 帆村は何を話そうというのだろう。時刻は五分、十分と過ぎてゆき、廊下に佇《たたず》んで待っている人たちの気をいらだたせた。
 すると突然、糸子の金切り声が聞えた。扉がパッと明いて、糸子が寝衣《ねまき》のまま飛び出してきたのだ。
「――帆村はんの、あつかましいのに、うち呆れてしもうた。あんな人やあらへんと思うてたのにほんまにいやらしい人や。さあ、お松。もうこんなところに御厄介《ごやっかい》になっとることあらへんしい。はよ、うちへいのうやないか」
 お松は愕いて、
「まあ、どないしはったんや。えろう御恩になっとる帆村はんに、そんな口を利いては、すみまへんで――」
「御恩やいうたかて、あんないやらしい人から恩をうけとうもない。一刻もこんなところに居るのはいやや。さあ、すぐ帰るしい。お松はよ仕度をしとくれや」
 何が糸子を憤《いきどお》らせたのであろうか。あれほど帆村に対し信頼し、帆村に対してかなりの愛着を持っていたと思われる糸子が、何の話かは知らぬが、突然憤って帆村を毛虫のように云いだしたんだから、一座もどうこれを鎮《しず》めていいか分らなかった。
 糸子たちがズンズン仕度をととのえているのを見ると、さっきから室の片隅にジッと蹲《うずくま》っていた帆村は、黙々として立ち上り、コソコソと廊下づたいに出ていった。大川司法主任も怪訝《けげん》な面持で、帆村の後姿を無言のまま見送っていた。


   秘密を知る麗人


 その夜、道頓堀をブラついていた人があったら、その人は必ず、今どき珍らしい背広姿の酔漢を見かけたろう。
 その酔漢は、まるで弁慶蟹《べんけいがに》のように真赤な顔をし、帽子もネクタイもどこかへ飛んでしまって、袖のほころびた上衣を、何の意味でか裏返しに着て、しきりと疳高《かんだか》い東京弁で訳もわからないことを呶鳴りちらしていた筈である。
 もしも糸子が、その酔漢の面をひと目見たら、彼女はあまりの情なさに泣きだしてしまうかも知れない処だった。それは外ならぬ帆村荘六その人であったから。
 なぜ帆村は、こうも性質ががらりと違ってしまったんであろうか。昨日の聖人は今日の痴漢であった。
 村松検事を救う手がないので自暴《やけ》になったのか。蠅男を捕える見込みがつかないで、悲観してしまったのか。それとも糸子に云い寄って無下に斥《しりぞ》けられたそのせいであろうか。
 道頓堀に真黒な臍《へそ》ができた。その臍は、すこしずつジリジリと右へ動き、左へ動きしている。それは場所ちがいの酔漢《すいかん》帆村荘六をもの珍らしそうに取巻く道ブラ・マンの群衆だった。
 帆村はポケットから、ウイスキーの壜を出して、茶色の液体をなおもガブガブとラッパ呑みをし、うまそうに舌なめずりをするのだった。そのうちに、何《ど》うした拍子か、喧嘩をおッ始めてしまった。嵐のような人間の渦巻が起った。帆村は犬のように走りだす。その行方にあたってガラガラガラと大きな音がして、女の金切り声が聞える。
 ――帆村は一軒の果物屋の店にとびこむが早いか、太いステッキで、大小の缶詰の積みあげられた棚を叩き壊し、それから後を追ってくる弥次馬に向って、林檎《りんご》だの蜜柑《みかん》だのを手当り次第に抛げつけだしたのである。生憎《あいにく》その一つが、折から騒ぎを聞いて駈けつけた警官の顔の真中にピシャンと当ったから、さあ大変なことになった。
「神妙にせんか。こいつ奴が――」
 素早く飛びこんだ警官に、逆手をとられ、あわれ酔払いの帆村は、高手小手に縛りあげられてしまった。その惨《みじ》めな姿がこの歓楽街から小暗い横丁の方へ消えていくと、あとを見送った弥次馬たちはワッと手を叩いて囃したてた。
 それと丁度同じ時刻のことであったが、本邸に帰った糸子は、何を思ったものか、突然お松に命じて、宝塚ホテルを電話で呼び出させた。
「お嬢はん。なんの御用だっか」
「なんの用でも、かまへんやないか。懸けていうたら、はよ電話を懸けてくれたらええのや」
 糸子は何か苛々《いらいら》している様子だった。
 宝塚ホテルが出た。
 お松がそれを知らせると、糸子はとびつくようにして、電話口にすがりついた。
「宝塚ホテル? そう、こっちは玉屋糸子だすがなア。帆村荘六はんに大至急|接《つな》いどくなはれ」
「ええ、帆村はんだっか。いまちょっとお出かけだんね。十二時までには帰ると、いうてだしたが……」
 と、帳場からの返事だった。
「まあ、仕様がない人やなア。どこへ行ったんでっしゃろ」
「さあ、何とも分りまへんなア」
 糸子は落胆の色をあらわして溜息をついた。
「なんぞ御用でしたら、お伝えしときまひょうか」
 と帳場が尋ねると、糸子は急に元気づき、
「そんなら一つ頼みまっさ。今夜のうちに、こっちへ来てくれるんやったら、例の疑問の人物について、私だけが知っとることを話したげます。明日から先やったら、他へ知らせますから、後から恨《うら》まんように――と、そういうておくれやす」
 そこで話を終り、糸子は電話を切った。
 お松は傍で聞いていて、可笑《おか》しそうに笑った。
「なんや思うたら、もう帆村はんと休戦条約だっか。ほほほほ」
 しかし糸子は、思い切ったことを、帆村に申し入れたものだ。
 かねて糸子は蠅男について誰も外の者が知らぬ秘密を握っていると思われたが、いよいよそれを帆村に云う気になったらしい。しかもそれを帆村だけに与えるというのではなく、今夜来なければ、警察の方に知らせてしまうぞという甚だ辛い好意の示し方をした。まだまだ彼女の帆村に対する反感が残っているらしいことが窺《うかが》われた。
 でも今夜のうちといえば、帆村は果して糸子のもとへ駆けつけられるだろうか。それは出来ない相談だった。帆村はいま、暴行沙汰のため、警察の豚箱のなかに叩きこまれているはずだった。宝塚ホテルの帳場子は、帆村がそんな目に会っているとは露《つゆ》知るまい。あたら帆村も、ここへ来て慎みを忘れたがために、折角糸子が提供しようという蠅男の秘密を聞く機会を失ってしまって、遂にこれまでの苦労を水の泡沫《あわ》と化してしまうのだろうか。


   怪! 怪! 蠅男の正体!


 玉屋本邸は、今宵《こよい》糸子を迎えて、近頃にない賑やかさを呈していたが、そのうちに午後九時となり十時となり、親類知己の娘さんたちも一人帰り二人帰りして、やがて十一時の時計を聞いたころには、五人の召使いの外には糸子只一人という小人数になった。
 夜は次第に更けるに従って、この広いガランとした邸はいよいよ浸みわたるようなもの寂しさを加えていった。そのうちに、昨日と同じく、風さえ出て、雨戸がゴトゴトと不気味な音をたてて鳴った。
 糸子はお松を寝所へ下らせて、彼女は只ひとり、かつて父親総一郎の殺された書斎のなかに入っていった。
「お父つぁん――」
 糸子は室の真中に立って、今は亡き父を呼んでみた。もちろん、それに応える声は聞かれなかったけれど。
 糸子は父が愛用していた安楽椅子の上に、静かにしなやかな体をなげた。そして机の上にのっている「論語詳解」をとりあげると、スタンドをつけて頁をめくっていった。
 そのうちに、いつしか糸子は本をパタリと膝の上に落とし、京人形のように美しい顔をうしろにもたせかけて、うつらうつらと睡りのなかに誘われていった。
 外はどうやら雨になったようである。
 そのときである。
 天井裏を、何か重いものがソッとひきずられるような気持ちのわるい音がした。――しかし糸子は、何も知らないで睡っていた。
 ゴソリ、ゴソリと、その不気味な物音は、糸子の睡る天井裏を匍《は》っていった。何者であろうか。召使いたちも、白河夜舟《しらかわよふね》の最中《さいちゅう》であると見え、誰一人として起きてこない。
 危機はだんだんと迫ってくるようである。
 するとゴソリゴソリの音がパッタリ停った。それに代ってコトリという音が、もっとハッキリ聞えた。それは天井裏についている四角な空気抜きの穴のところで発したものだった。
 そのうちに、なにやら黒いものが、その空気穴のなかから垂れ下ってくるのであった。それはだんだん長く伸びて、まるで脚のような形をしていた。そのうちに、また一本、同じようなものが静かに下って来た。どれもこれも、糸のようなもので吊り下げられているらしい。
 腕のようなものが一本、それからまた一本! ズルズルとすこしスピードを増して垂れ下がってくる。
 この奇怪な有様を、何にたとえたらいいであろう。もしこの場の光景を見ていた人があったなら、この辺でキャッといって気絶してしまうかも知れない。
 ――黒い外套のようなものが、フワリと落ちて来た。それにつづいて、穴からヌッと出てきたのは、意外にも人の首だった。見たこともない三十がらみの男の首で、眼をギョロギョロ光らせている。見るからに悪相をそなえていた。
 その首はスーッと穴から下に抜けた。それにつづいて肩が出て来るのであろうか。しかしあのような六、七寸の穴から、肩を出すことは難かしいであろうと思われた。
 しかるに首はスーッと床の上めがけて落ちていく。首のうしろにつづいているのは、男枕を二つ接ぎあわせたようなブカブカした肉魂。――それでお終いだった。
 首と細い胴の一部だけの人間?
 それでも、その人間は生きているのであろうか?
 ドタリと床の上に痩せ胴のついた首が落ちると、それを合図のように、始めに床の上に横たわっていた長い手や足やが、まるで磁石に吸いつく釘のようにキキッと集まって来た。
 やがてムックリと立ち上ったところを見れば、これぞ余人ではなく、有馬山中を疾風のように飛んでいったあの蠅男の姿に相違ない。組立て式の蠅男? なんという奇怪な生き物もあったものだろう。一体蠅男は人間か、それとも獣か?
 蠅男は大きな眼玉をギロリと動かして、安楽椅子の上に睡る糸子の艶めかしい姿に注目した。
 蠅男はそこでニヤリと気味のわるい薄笑いをして、どこに隠し持っていたのか、一条の鋼鉄製の紐をとりだした。それを黒光りのする両手に持って身構えると、サッと糸子の方にすりよった。……呀《あ》ッ、糸子が危い!
 糸子は死んだようになっていた。蠅男の手に懸って、細首を絞められてしまったかと思ったが、そのとき遅く、かのとき早く、
「――蠅男、そこ動くなッ」
 と、突然大音声があがったと思う途端《とたん》、寝台の陰からとび出して来た一個の人物! それは誰であったろうか? 警察の豚箱に監禁せられて熟柿《じゅくし》のような息をふいているとばかり思っていた青年探偵、帆村荘六の勇気|凜々《りんりん》たる姿だった。蠅男は無言で後をふりむいた。
「うふ。――いいところへ来たな。俺の正体を見たからには、最早《もはや》一刻も貴様を活か
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