取ってくれ」
「えッ、村松はんのをでっか」
 鑑識子はオズオズと気の毒な容疑者村松検事の顔と、命令する水田検事との顔を見くらべた。それを聞いていた村松検事は、無言のまま、右手を前につきだした。ああその手、鑑識子の前に拡げられた村松の掌には、赤黒い血がベットリとついていた。
 鑑識子は物なれた調子で、村松の指紋を別の紙の上に転写して、差出した。
「どうだネ、この両方の指紋は……」
 水田検事の声は、心なしか、すこし慄《ふる》えを帯びているようであった。
 鑑識子は、命ぜられるままに二枚の紙にうつし出された指紋を、虫眼鏡の下にジッと較べていたが、やがて彼の額には、ジットリと脂汗が滲みだしてきた。
「どうだネ。指紋は合っているか、合わないか」
「……同一人の指紋でおます」
 鑑識子は苦しそうに応えて、ハンカチーフで額の汗を拭いた。
 水田検事は、それを聞くと、傍《わき》を向いていった。
「村松氏を、殺人容疑者として逮捕せよ」
 村松氏の手首には痛々しく捕縄がまきついた。曾ては、蠅男の捜査に、係官を指揮していた彼が、今は逆に位置をかえて、殺人容疑者として拘禁される身となった。
 疑問の怪人「蠅男」を捕えてみれば、それは人もあろうに「蠅男」捜査の指揮者であった村松検事であったとは。其の場に居合わせた人々は、事の意外に声もなく、ただ呆れるより外なかったのである。
 村松検事に世話になっていた人たちは、水田検事の取調べに対して、もっといろいろ反駁してくれることを冀《ねが》っていた。しかるにこの人たちの期待を裏切って、村松検事はほとんど口を開かなかったのである。
 なぜ村松は、多くを喋らなかったのであろう。彼は凶器と断定せられる文鎮の上に、自らの指紋がついているのに気がついて、もう何を云っても脱れぬところと、殺人罪を覚悟したのであろうか。それとも何か外に、喋りたくない原因があったのであろうか。
 関係者たちに、ひとまず休憩が宣せられ、容疑者村松検事は別室に引かれていった。
 現場では、無慚な最期をとげた塩田先生の骸《なきがら》の上に、カーキ色の布がフワリとかけられた。
 水田検事の一行は、予審判事と組んで、惨劇の室のうちに、いろいろと証拠固めをしてゆくのであった。
 丁度その半ばに、急を聞いて、帆村探偵や正木署長たちが駆けつけた。
 いくら村松検事の味方が駆けつけたとて、犯行は犯行であった。水田検事から詳しい説明がのべられると、村松検事の無罪説を信じていた帆村たちも、それでも村松検事は塩田先生殺しに無関係であるとはいえなかった。
(しかし、これは何か大きな間違いがあるのに違いない)
 帆村はあくまでそれを信じていた。
 でも、内部から鍵をかけた密室の殺人事件――塩田先生は文鎮で脳天をうち砕かれ、村松には凶器である文鎮を握っていた証拠がある。窓は内から鍵こそ掛っていなかったが閉っていたそうである。もし窓が明いていたとしても、誰が窓の外から侵入して来られるだろう。なにしろこの法曹クラブ・ビルというのは、スベスベしたタイル張りの外壁をもって居り、屋上には廂《ひさし》のようなものが一間ほども外に出ばっていたし、人間|業《わざ》では、到底《とうてい》窓の外から忍びこむことが出来そうもなかった。
 すると、村松検事の犯行でないという証明は、ちょっと困難になるわけだった。
 帆村は、水田検事に頼んで、村松にひと目会わせてくれるように頼んでみたけれど、この際のこととて、それもあっさり断られてしまった。


   死闘宣言


 帆村探偵は、彼をしきりと慰めてくれる正木署長とも別れ、ただひとり附近のホテルに入った。
 糸子の泊っている宝塚ホテルへ帰ろうかと思わぬでもなかったけれど、それよりは村松検事の身近くにいた方が、なにか便利ではないかと思ったからだ。
「どうすれば、村松さんを救いだせるだろうか」
 冷たい安ホテルの一室の、もう冷えかかったラジエーターの傍に椅子をよせて、帆村はいろいろと、これからの作戦を考えつづけた。だが一向に、これはと思ううまい考えも浮んで来なかった。
 そのうちに彼は、コクリコクリと居眠りを始めた。昼間の疲れが、ここで急に出て来たのであろう。
 ガタリ。
 突然大きな音がして、帆村はハッと眼ざめた。どうやら廊下の方から聞えたらしい。
 深夜の怪音の正体は何? 何者かが廊下の窓を破って、ホテルのなかに忍びこんでくるようにも感じられた。
 帆村は素早く室内のスイッチをひねって、室内の灯りを消した。それからポケットからピストルを出して手に握ると、人口の扉の錠を外した。そして床に腹匍《はらば》いせんばかりに跼《かが》んで、扉をしずかに開いてみた。もし廊下に何者かの人影を見つけたら、そのときはピストルに物を云わせて、相手の足許を射抜くつもりだった。
「なアんだ。誰もいやしない」
 廊下には、猫一匹いなかった。それでも彼は念のため、廊下に出て、窓を調べてみた。窓には内側からキチンと錠が下りていた。しかし窓はしきりにガタガタと鳴っていた。真暗な外には、どうやら風が出てきたらしい。帆村はホッと息をついて、自分の部屋に帰っていった。
 風は目に見えるように次第に強くなり、ヒューッと呻り声をあげて廂《ひさし》を吹きぬけてゆくのが聞えた。
 こうしてひとりでいると、まるで牢獄のうちに監禁されたまま、悪魔が口から吐きだす嵐のなかに吹き飛ばされてゆくような心細さが湧いてくるのであった。
 チリチリチリ、チリン。
 突然、電鈴《ベル》が鳴った。電話だ。
 それは夢でも幻想でもなかった。たしかに室内電話が鳴ったのである。深夜の電話! 一体どこから掛ってきたのであろう。
 帆村は受話器をとりあげた。
「帆村君かネ」
「そうです。貴方は誰?」
 帆村の表情がキッと硬ばり、彼の右手がポケットのピストルを探った。
「こっちはお馴染《なじみ》の蠅男さ」
「なに、蠅男?」
 蠅男がまた電話をかけてきたのだ。村松検事の声とは全然違う。帆村は、蠅男に対する恐ろしさよりは、この蠅男の電話を、ぜひとも水田検事に聞かせてやりたかった。
「どうだネ、帆村君。今夜の殺人事件は、君の気に入ったかネ」
「貴様が殺《や》ったんだナ。塩田先生をどういう方法で殺したんだ。村松検事は貴様のために、手錠を嵌《は》められているんだぞ」
「うふふふ。検事が縛られているなんて面白いじゃないか」と蠅男は憎々しげに笑った。「どう調べたって、検事が殺ったとしか思えないところが気に入ったろう。口惜しかったら、それをお前の手でひっくりかえしてみろ。だが、あれも貴様への最後の警告なんだぞ。この上、まだ俺の仕事の邪魔をするんだったら、そのときは貴様が吠《ほ》え面《づら》をかく番になるぞ。よく考えてみろ。もう電話はかけない。この次は直接行動で、目に物を見せてくれるわ。うふふふ」
「オイ待て、蠅男!」
 だが、この刹那《せつな》に、電話はプツリと切れてしまった。
 神出鬼没とは、この蠅男のことだろう。彼奴は、帆村の入った先を、すぐ知ってしまったのだ。いまの電話の脅し文句も、嘘であるとは思えない。蠅男は宣言どおり、いよいよこれからは直接行動で、帆村に迫ってこようというのだった。帆村はもう覚悟をしなければならなかった。
 帆村は奮然《ふんぜん》と、卓を叩いて立ち上った。
(そうだ。村松検事を救い出す手は外にないのだ。それは蠅男を逮捕する一途があるばかりだ。やれ、村松検事が殺人罪に堕ちた。やれ、糸子さんが蠅男に誘拐された。やれ、今度は誰のところに死の宣告状がゆくか。やれ、どうしたこうしたということを気に懸けているより、そんなことには頓着することなく、一直線に蠅男の懐にとびこんでゆくのが勝ちなのだ。蠅男はそうさせまいとして、俺の注意力が散るようにいろいろな事件を組立てて、それを妨害しているのにちがいない。よオし、こうなれば、誰が死のうとこっちが殺されようと、一直線に蠅男の懐にとびこんでみせるぞ)
 今や青年探偵帆村荘六は、心の底から憤慨したようであった。一体帆村という男は、探偵でありながら、熱情に生きる男だった。その熱情が本当に迸《ほとばし》り出たときに、彼は誰にもやれない離れ業を呀《あ》ッという間に見事にやってのけるたちだった。今までは、蠅男を探偵していたとはいうものの、その筋の捜査陣に気がねをしたり、それからまたセンチメンタルな同情心を起して麗人をかばってみたり、いろいろと道草を喰っていたのだ。翻然《ほんぜん》と、探偵帆村は勇敢に立ち上った。
(一体、蠅男というやつがいくら鬼神でも、これだけの事件を起して、その正体を現わさないというのは可笑《おか》しいことだ。今までに知られた材料から、蠅男の正体がハッキリ出て来ないというのでは、帆村荘六の探偵商売も、もう看板を焼いてしまったがいい。うむ、今夜のうちに、何が何でも、蠅男の正体をあばいてしまわねば、俺はクリクリ坊主になって、眉毛まで剃ってしまうぞ)
 帆村は眉をピクリと動かすと、何と思ったか、狭い室内を檻に入れられたライオンのように、あっちへ行ったり、こっちへ来たりして気ぜわしそうに歩きだした。


   糸子の立腹


 帆村探偵は、どんなにして次の朝を迎えたのかしらない。
 とにかく彼が、室を出てきたところを見ると、普段から蒼白な顔は一層青ざめ、両眼といえば、兎の目のように真赤に充血していた。よほどの苦労を、一夜のうちに嘗《な》めつくしたらしいことが、その風体《ふうてい》からして推《お》しはかられた。
 帆村は、すぐさま村松検事の留置されている警察署へゆくかと思いの外《ほか》、彼はその前を知らぬ顔して、自動車をとばしていった。そして到着したところは、阪急の大阪駅乗車口であった。
 彼はそこで大勢の人をかきわけ、大きな声で宝塚ゆきの切符を買った。
 急行電車に乗りこんだ彼は、乱暴にも婦人優先席にどっかと腰を下ろすや、腕ぐみをして眼を閉じた。そして間もなく大きな鼾《いびき》をかきだすと見る間に、隣に着飾った若奥様らしい人の肩に凭《もた》れて、いい気持ちそうに眠ってしまった。
 車掌が起こしてくれなければ、彼はもっと睡っていたかも知れない。彼は慌てて、宝塚の終点に下りて、電柱の側らで犬のような背伸びをした。
 それから彼は、太い籐《とう》のステッキをふりふり、新温泉の方へ歩いていった。
 でも彼は、新温泉へ入場するのではなかった。彼はその前をズンズン通りすぎた。そして、やがて彼が足早に入っていったのは、池谷医師の控邸だった。それは先に、糸子が訪れた家であり、それよりもすこし前、池谷医師がお竜と思《おぼ》しき女と、肩をならべて入っていった家であった。
 入口の扉には、鍵がかかっていなかった。帆村は無遠慮にも、靴を履いたまま上にあがっていった。何を感じたものか、彼は各室を鄭重に廻っては、押入や戸棚を必ず開いてみた。そして壁や天井を、例の太い洋杖《ステッキ》でコンコンと叩いてみるのだった。
 階下が終ると、こんどは階上へのぼって、同じことを繰りかえした。
 でも、格別彼が大きい注意を払ったものもなく、別にポケットへねじ込んだものもなかった。十五分ばかりすると彼はまた玄関に姿を現わした。そして後をも見ず、その邸の門からスタスタと外へ出ていった。
 それから彼は、再び新温泉の前をとおりすぎ、橋を川向うへ渡った。そこには宝塚ホテルが厳然《げんぜん》と聳《そび》えていた。彼の姿はそのホテルのなかに吸いこまれてしまった。
 大川司法主任は、糸子の室の前の廊下で、朝刊を一生懸命に読みふけっているところだった。なにしろその朝刊の社会面と来たら、村松検事の殺人事件の記事で一杯であった。村松検事の大きな肖像写真が出ていて「検事か? 蠅男か?」と、ずいぶん無遠慮な疑問符号がつけてあった。
「恩師殺しに秘められたる千古の謎!」などという小表題《こみだし》で、三段ぬきで組んであった。
「ああ帆村はん。これ、なんちゅうことや。儂《わし》はもう、あんまり愕いたもんやで、頭脳が冬瓜《とうがん》のように、ぼけ
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