いの話だんね」
「ははァ、行きちがいの話ですか。じゃあそこまで行ってどうも御苦労さまというわけですか」
「まあそんなものや。つまり村松検事さんのところへ、塩田先生からの速達が来たという話やねん。今夜十時までに、堂島さんの法曹クラブに訪ねてきてくれというハガキや」
「村松さんはもう行ったじゃないですか」
「そうや。そやさかい、行きちがいや云うとるねん」
「しかし速達はギリギリに着いたですね。もうかれこれ九時ですよ」
 二人の会話は、そこでまたもや杜切《とぎ》れてしまった。帆村は次第につのり来る寒さに、外套の襟を深々とたて、あとは黙々として更けてゆく夜の音に、ただジッと耳を澄ましたのだった。
 おお蠅男は、どこに潜《ひそ》んでいる?
 こうして頤紐《あごひも》をかけた大勢の警官隊でもって、大阪きっての歓楽の巷である新世界と大阪一の天王寺公園とを冬の陣のようにとりかこんでいるが、蠅男とお竜とはもういつの間にか、この囲みをぬけてどこかへ逃げてしまったのではないか。
 全く神出鬼没《しんしゅつきぼつ》の怪漢蠅男のことだから、容易に捕る筈がない。しかもこの界隈《かいわい》は、人間の多いこと、抜け裏の多いことで大阪一の隠れ場所だ。いまに活動や芝居がはねて、群衆が新世界からドッと流れだしたときには、警官隊はどうしてその夥《おびただ》しい人間の首実検をするのであろうか。恐らく蠅男は、その閉場《はね》の時刻を待っているのであろう。
 怪漢蠅男ほど頭の働く悪人は聞いたことがない。彼奴はすこぶるの知恵者であり、そして云ったことを必ず実行する人間であり、そして人一倍の見栄坊だ。彼はどうしても今夜のうちに、異常なセンセイションをひき起す殺人を実演してみせるに違いない。だからこの一画のなかに縮こまっているなんて、そんな筈がないのだ。
 その蠅男と、彼帆村とは、きょうはじめて口を利きあった。それは電話でのことであったが、特筆大書すべき出来ごとだった。
 糸子をかえしてよこして、彼に探偵を断念しろというところなんか、実に凄い脅迫である。彼は今、やっぱり探偵根性をもって、蠅男のあとを嗅ぎまわっているが、これが蠅男に知れずにはいまい。そのときこそ、彼は一大決心を固めなければならない。蠅男の知恵には、さすがの彼も全く一歩どころか数歩をゆずらなければならない。
 こうしているうちにも、蠅男は誰かの胸もとに鋭い刃をジリジリと近づけつつあるのではあるまいか。殺人宣告書は誰がもっているのか分らないが、一体誰が殺される役まわりになっているのだろうか。
 そのとき帆村は、まっさきに心配になるものを思いだした。彼は急に機械のまわりだした人形のように、トコトコ歩きだした。
 彼は交番へ入った。そして電話で、宝塚のホテルに詰めている大川司法主任をよんでもらうように頼んだ。
「モシモシ、こっちは大川だす。なんの用だすかいな」
 帆村はその声を聞いて、胸を躍らせた。彼はその後の蠅男の事情を報告して、もしや糸子のところに死の宣告書が来ていないかを尋ねた。
「それは大丈夫だす。そんなものは決して来てえしまへん。安心しなはれ」
 大川主任はキッパリ答えた。
 帆村は安心をして電話を切ったが、しかしまた新たなる心配が湧き上ってきた。
「誰かが、死の宣告書をつきつけられているのに違いない。その人は何かの理由があって、そのことを警察に云ってこないのではないか。早く云ってくれば助けられるかも知れないのに……」
 そんなことを考えつづけているときだった。霞町《かすみちょう》の角を曲って、こっちへ進んで来た自動車が、ピタリと停った。
 誰だろうと見ると、なかからヒョイと顔を出したのは余人ならず鴨下ドクトルの鬚面であった。
「正木さん、オイ正木さんは居らんか」
 ドクトルは住吉署長の名をしきりと呼んだ。
 なにごとだろうと、正木署長は自動車のところへ駆けつけた。
「おお正木さん。ねえ、冗談じゃないよ。君たち、こんなところで非常警戒していても何にもならせんよ。蠅男はすでにさっき現われて、儂の大切な友人を殺し居ったぞ」
「えッ、蠅男が現われたと……」
 誰も彼もサッと顔色をかえた。
「誰が殺されたんです」
 帆村が反問した。
「殺された者か。それは儂の友人、塩田律之進じゃ。それはまだいいとして、殺したのは誰じゃと思う」
「蠅男ではないんですか」
「あれが蠅男なんだろうな」ドクトルは小首を傾け、
「とにかく捕ったその蠅男は、さっき儂と一緒の車に乗っていた村松という検事なんじゃ」
「ええッ、村松検事が……」
「塩田先生を殺したというのですか」
「そして検事が蠅男だとは、まさか……」
 一同はあまりのことに腰を抜かさんばかりに愕いた。村松検事があの恐るべき蠅男だったとは、誰が信じようか。しかしドクトルの言葉は、出鱈目を云っているとは思われない。どこかに間違いがあるのであろう。一体どこが間違っているのか?
 間違っていないことは、帆村にいったとおり、それが誰にもせよ「蠅男」が今夜もキッパリ人を殺したということ!


   法曹クラブの殺人


 村松検事は、果して恐るべき殺人魔「蠅男」なのであろうか?
 検事を信ずることの篤《あつ》い帆村探偵は、誰が何といおうと、それが間違いであることを信じていた。しかし何ごとも証拠次第で決まる世の中だった。元の鬼検事正、塩田先生の殺害現場を調べた検察官はまことに遺憾にたえないことだったけれど、村松検事を殺人容疑者として逮捕するしかないのっぴき[#「のっぴき」に傍点]ならぬ証拠を握っていたのであった。
 そのときの報告書に記された殺人|顛末《てんまつ》は、次のような次第であった。
 場所は、大阪の丸の内街と称せられる堂島に、最近建てられた六階建のビルディングで、名づけて法曹クラブ・ビルというところだった。
 当夜午後九時をすこし廻ったとき、人造大理石の柱も美々しいビルの玄関に、一台の自動車が停った。そして中から降りて来たのは一人の鬚の深い老人と、もう一人は黒い服を着た顔色の青白い中年の紳士だった。この老人は、云わずとしれた鴨下ドクトルだったし、黒服の中年紳士は村松検事であった。
 二人はボーイに来意をつげた。
 ボーイは早速電話でもって、塩田先生に貸してある小室へ電話をかけた。すると塩田先生が電話口に現われて、
「おおそうか。鴨下ドクトルに、村松も一緒について来たのか。たしかに二人連れなんだネ」
「左様でございます」
 とボーイは返事をした。
 すると塩田先生は、何思ったか急に言葉を改めて、ボーイに云うには、
「実は、これは客に知れては困るので、君だけが心得て、ソッと知らせて貰いたいんだが……」、と前提して、「その村松という客の前額に、斜めになった一寸ほどの薄い傷痕がついているだろうか。ハイかイイエか、簡単に応えてくれんか」
 ボーイはこの奇妙な質問に愕いたが、云われたとおり村松氏の額《ひたい》を見ると、なるほど薄い傷痕が一つついていた。
「ハイ、そのとおりでございます」
「おおそうかい」と、塩田先生は安心したような声を出して、「では丁寧に、こっちへお通ししてくれんか」
 二人の客は、そこで帽子とオーバーとを預けて、エレヴェーターの方に歩いていったが、そのときドクトルは横腹をおさえて顔を顰《しか》め、ボーイに手洗所の在所《ありか》を聞いた。
 そこでボーイが一隅を指《ゆびさ》すと、ドクトルは村松氏に先へ行くようにと挨拶して、アタフタと手洗所の中へ入っていった。
 ボーイは村松氏だけを案内して、六階にある塩田先生の貸切り室へ連れていった。扉をノックすると、塩田先生が自ら入口を開いて、村松氏を招じ入れた。鴨下ドクトルは今手洗所に入っているから、間もなく来るであろうと村松氏が云えば、先生は大きく肯《うなず》き、そうかそうかといって、急いで村松氏の手をとり、室内へ入れ、扉をピタリと閉じた。
 ボーイは、手洗所から鴨下ドクトルが出て来ない前に、階下へ下りていなければならぬと思ったので、エレヴェーターを呼んで、スーッと下に下りていった。
 約七、八分の間であったと、ボーイは後に証言した。ボーイが、手洗所から出てきた鴨下ドクトルを案内して、再び塩田先生の室の前に立ったまでの時の歩みを後から思い出してみると、――
 その七、八分という短い時間のうちに、塩田先生の室には大変なことが起っていたのだった。それとも知らぬボーイは、室の扉をコンコンとノックした。
 しかるに、室のなかからは、何の返事もない。聞えないのかと思って、もう一度、すこし高い音をたててノックしたが、やはり返事がない。
「オイ、どうしたんじゃ。お前は部屋を間違えとるんじゃないか。しっかりせい」
 と、気短かの鴨下ドクトルは、ボーイを呶鳴りつけた。
 ボーイは、そういわれて、室番号を見直したが、たしかに間違いない。室内には、電灯が煌々《こうこう》とついている。六階で電灯のついているのは、そんなに沢山あるわけではない。どうしてもこの室なのに、塩田先生と村松氏は、一体中で何をしているのだろう。
 ボーイは把手《ノッブ》をつかんで、押してみた。
 だが、扉はビクともしない。内側から鍵がかかっているのだった。
「変だなア。モシモシ、お客さん――」
 と、ボーイは大声で呶鳴りながら、扉を激しく叩いた。
 すると、扉のうちで、おうと微《かす》かに返事をする者があった。
 ボーイはホッとして、鴨下ドクトルの顔を見上げた。ドクトルは鬚だらけの顔のなかから、ニヤニヤと笑っていた。
 やがて扉の向うで、鍵の廻る音が聞えた。そして扉がギーッと内に開いて、顔を出したのは村松検事だった。だが彼の顔は、血の気を失って、まるで死人のように真青であった。
 検事は、ブルブル慄《ふる》う指先で室内を指し、
「殺人事件がおこったんだ。ボーイ君。そこらにいる人を大声で呼びあつめるんだ。それから、鴨下ドクトル。すみませんが、どこかそこらの室から電話をかけて、警察へ知らせてくださらんか」
 村松は、やっとそれだけのことを云った。ボーイは、扉ごしにチラリと室内を見やった。絨毯《じゅうたん》の上に、大きな人間の身体が血まみれになって倒れているのが明るい電灯の下によく見えた。彼はドキンとして、腹の中から自然に声がとび出した。
「おう、人殺しだッ。皆さん早く来て下さいッ」


   引かれゆく殺人検事?


 電話で知らせたので、警察からは係官が宙をとんで駈けつけた。
 惨劇の室内に入ってみると、そうも広くないこの室は、なまぐさい血の香で噎《むせ》ぶようであった。
 塩田先生は、脳天をうち砕かれ、上半身を朱に染めて死んでいた。これが曾《かつ》て、鬼検事正といわれ京浜地方の住民から畏敬されていた塩田律之進の姿なのであろうか。それはあまりにも悲惨な最期だった。
 係官の取調べが始まった。
 塩田先生が殺害された当時、この室のうちに誰がいたか。
 それは外でもない。村松検事只一人だったことを証明する者が沢山居た。
 ボーイも証言した。鴨下ドクトルも、もちろん同意した。階下の事務所にいて、塩田先生のところへ電話をかけたボーイ長もそれを否定しなかった。鴨下ドクトルが手洗所に入り手洗所から出てくるのをみていた、女事務員たちの中にも、それに異議をいう者がなかった。
「どうです、村松さん。これについて何か云いたいことがありますか」
 当直の水田検事が、気の毒そうに、この先輩にあたる村松に訊いた。
「……」
 村松は物を云うかわりに、首を左右に振って答えた。口を開く気力もないといった風であった。
「では村松さん。貴方はここに死んでいる人を殺した覚えがありますか」
 村松は、更に無言のまま首を左右にふった。
「では、この人は、どうしてここに死んでいるのです」
 村松はやはり黙々として、かぶりを振った。
「検事はん。血まみれの文鎮についとった指紋が、うまく出よりました。これだす」
 そういって、鑑識課員が、白い紙に転写した指紋と、凶器になった文鎮とを差出した。
「それから、ちょっと村松氏の指紋を
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