もう扉を叩かんようにお頼み申しまっせ。蠅男が来たのか思うて、吃驚《びっくり》しますがな」といって総一郎は言葉を切ったが、また慌てて声をついで、「――それからあのウ、池谷与之助《いけたによのすけ》は帰って来ましたやろか。そこにいまへんか」
「ああ池谷はんだっか。さあ――」と署長は後をふりかえって、警官の返事を求めたあとで、「どこやら行ってしもうたそうや。うちに居らしまへんぜ」
「ああそうでっか。おおきに。――そんならこれで喋るのんはお仕舞いにしまっせ」
帆村は、さっきからしきりと両人の扉ごしの会話に耳を傾けていたが、このとき首を左右に振って、
「――喋るのはお仕舞いにしまっせ、か。これが永遠の喋り仕舞いとなるという意味かしら。ホイこれは良くない卦《け》だて」
といって、大きな唇をグッとへ[#「へ」に傍点]の字に曲げた。
天井裏の怪音?
「あれはなんだネ、池谷与之助てえのは」
と、検事が署長にたずねた。
「その池谷与之助ですがな。さっき怪しい奴が居るいうてお知らせしましたのんは。夜になって、この邸にやってきよりましたが、主人の室へズカズカ入ったり、令嬢糸子さんを隅へ引張って耳のところで囁《ささや》いたり、そうかと思うと、会社の傭人を集めてコソコソと話をしているちゅう挙動不審の男だすがな」
「フーム、何者だネ、彼は」
「主治医や云うてます。なんでも宝塚に医院を開いとる新療法の医者やいうことだす。さっき邸を出てゆっきよったが、どうも好かん面《かお》や」
と、署長は、白面《はくめん》無髯《むぜん》に、金縁眼鏡をかけているというだけの、至って特徴のない好男子の池谷与之助の顔に心の中で唾をはいていた。
「なんだ、怪しいというのは、たったそれだけのことかネ」
「いいえいな、まだまだ怪しいことがおますわ。さっきもナ、――」
と云いかけた途端であった。
突然、二階へ通ずる奥の階段をドンドンドンと荒々しく踏みならして駈け下りてくる者があった。それに続いてガラガラガラッとなにか物の壊れる音!
男女いずれとも分らぬ魂消《たまき》るような悲鳴が、その後に鋭く起った。
素破《すわ》、なにごとか、事件が起ったらしい。
「や、やられたッ。助けてえ――死んでしまうがなア――」
と、これは紛《まぎ》れもない男の声。
警官たちはハッと顔色をかえた。そして反射的に、その叫び声のする方へ駈けだした。
「こらこら、神妙にせんか。――」
騒動の階段の下から、襟がみを引捕えられて、猫のように吊しあげられたのは一人の男と女。
「どうしたどうした」
「どちらが蠅男や」
「蠅女も居るがナ」
「あまりパッとせん蠅男やな」
そんな囁きが、周囲から洩れた。
正木署長は前へ進み出で、
「コラ、お前は見たような顔やな」
と男の方にいった。
「へえ、私は怪しい者ではござりまへん。会社の庶務にいます山ノ井という者で、今日社長の命令で手伝いに参りましたわけで……」
「それでどうしたというのや。殺されるとか死んでしまうと喚きよったは――」
「いや、それがモシ、私が階段の下に居りますと上でドシドシとえらい跫音だす。ひょっと上を見る途端に、なにやら白いものがスーッと飛んできて、この眉間にあたったかと思うとバッサリ!」
「なにがバッサリや。上から飛んで来たというのは、そらそこに滅茶滅茶に壊れとる金魚鉢やないか。なにを慌てているねん。二階から転げ落ちてきたのやないか」
「ああ金魚鉢? ああさよか。――背中でピリピリするところがおますが、これは金魚が入ってピチピチ跳ねとるのやな」
署長以下、なんのことだと、気の弱い社員のズブ濡れ姿に朗らかな笑声を送った。
「――女の方は誰や。コラ、こっち向いて――」
と、署長は、鳩が豆を喰ったように眼をパチクリしている四十がらみの女に声をかけた。
「へへ、わ、わたくしはお松云いまして令嬢《いと》はんのお世話をして居りますものでございます」
「ウム、お松か。――なんでお前は金魚鉢を二階から落としたんや。人騒がせな奴じゃ」
「金魚鉢をわざと落としたわけやおまへん。走って居る拍子に、つい身体が障りましてん」
「なんでそんなに夢中で走っとったんや」
「それはアノ――蠅男が、ゴソゴソ匍《は》ってゆく音を聞きましたものやから、吃驚《びっくり》して走りだしましたので――」
「ナニ蠅男? 蠅男の匍うていっきょる音を聞いたいうのんか。ええオイ、それは本当か――」
署長は冗談だと思いながらも、ちょっと不安な顔をした。なにしろ蠅男防禦陣を敷いている真最中のことであったから。
「本当《ほんま》でっせ。たしかに蠅男に違いあらへん。ゴソゴソゴソと、重いものを引きずるような音を出して、二階の廊下の下を匍うとりました」
「二階の廊下の下を――」
と署長が天井
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