鉛筆で丸を入れてある文字を拾うてお読みやす」
「なに、この赤鉛筆で丸をつけたある字を拾い読みするのんか」
総一郎は娘にいわれたとおり、上の方から順序を追って、下の方へだんだんと読んでいった。初めは馬鹿にしたような顔をしていたが、読んでいくにつれてだんだん六ヶ敷《むずかし》い顔になって、顔がカーッと赤くなったと思うと、そのうちに反対にサッと顔面から血が引いて蒼くなっていった。
「そら、どうや。お父つぁんかて、やっぱり愕いてでっしゃろ」
「うむ、こら脅迫状や。二十四時間以ないニ、ナんじの生命《いのち》ヲ取ル。ユイ言状を用意シテ置け。蠅男《はえおとこ》。――へえ、蠅男?」
「蠅男いうたら、お父つぁん、一体誰のことをいうとりまんの」
「そ、そんなこと、俺が知っとるもんか。全然知らんわ」
「お父つぁん。その新聞の中に、蠅の死骸が一匹入っとるの見やはった?」
「うえッ、蠅の死骸――そ、そんなもの見やへんがナ」
「そんなら封筒の中を見てちょうだい。はじめはなア、その『蠅男』とサインの下に、その蠅の死骸が貼りつけてあったんやしイ」
総一郎は封筒を逆《さか》さにふってみた。すると娘の云ったとおり、机の上にポトンと蠅の死骸が一匹、落ちてきた。それはぺちゃんこになった乾枯《ひから》びた家蠅の死骸だった。そして不思議なことに、翅も六本の足も※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》りとられ、そればかりか下腹部が鋭利な刃物でグサリと斜めに切り取られている変な蠅の死骸だった。よくよく見れば、蠅の死骸と分るような、変った蠅の木乃伊《ミイラ》めいたものであった。
この奇怪な蠅の死骸は、果して何を語るのであろうか。
籠城《ろうじょう》準備
――二十四時間以ないニ、ナんじの生命ヲ取ル。ユイ言状を用意シテ置け。――
それだけが、活字の上に赤鉛筆で丸が入れてある。
――蠅男――
この二字だけは、不器用なゴム印の文字であって、インキは赤とも黒とも見えぬ妙な色で捺《お》してあった。
更に、奇怪な翅や脚を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》りとり、下腹部を半分に切ってある蠅の木乃伊《ミイラ》。――
全く妙な通信文であるが、とにかく脅迫状に違いない。
「お父つぁん。きっと心当りがおますのやろ。隠さんと、うちに聞かせて――」
「阿呆いうな。蠅男――なんて一向知らへんし、第一、お父さんはナ、人様から恨みを受けるようなことはちょっともしたことないわ。ことに殺されるような、そんな仰山な恨みを、誰からも買うてえへんわ」
「本当やな。――本当ならええけれど」
「本当は本当やが、とにかくこれは脅迫状やから、警察へ届けとこう」
「ああ、それがよろしまんな。うち[#「うち」に傍点]電話をかけまひょか」
「電話より、誰かに警察へ持たせてやろう。会社へ電話かけて、庶務の田辺に山ノ井に小松を、すぐ家へこい云うてんか」
娘の糸子が電話をかけに行っている間に、邸内《ていない》の男たちが呼び集められた。玉屋総一郎は、ともかくも蠅男の襲撃を避けるため、自分の居間に引籠《ひきこも》る決心を定めた。それだからまず外部から蠅男の侵入してくるのを防ぐために、四つの硝子窓を内側から厳重に羽根蒲団とトタン板とでサンドウィッチのように重ねたもので蓋をし、釘づけにした。それでもまだ心配になると見え、窓のところへ、大きな書棚や戸棚をピタリと据えた。
「どうです、旦那はん。これでよろしまっしゃろか」
「うん、まあその辺やな」
「あとは、明《あ》いとるところ云うたら、天井にある空気|孔《あな》だすが、あれはどないしまひょうか」
「あああの空気孔か」と、総一郎は白い天井の隅に、一升|桝《ます》ぐらいの四角な穴が明いている空気抜きを見上げた。そこには天井の方から、重い鋳物《いもの》の格子蓋《こうしぶた》が嵌《は》めてあった。「さあ、まさかあれから大の男が入ってこられへんと思うが、――」
「さようですナ、あの格子の隙から入ってくるものやったら、まあ鼠か蚊か――それから蠅ぐらいなものだっしゃろナ」
「なに、蠅が入ってくる。ブルブルブル。蠅は鬼門《きもん》や。なんでもええ、あの空気孔に下から蓋《ふた》をはめてくれ」
「下から蓋をはめますんで……」
「出来んちゅうのか」
「いえ、まだ出来んいうとりまへん。いま考えます。ええ、こうっと、――」
下僕《しもべ》たちが脳味噌を絞った挙句《あげく》、その四角な空気孔を、下から厚い紙で三重に目張りをしてしまった。
「さあ、これでもう大丈夫です。こうして置いたら蠅や蚊どころか、空気やって通ることが出来しまへん」
総一郎は、それでも不安そうに天井を見上げた。
そのうちに、会社からは田辺課長をはじめ山ノ井、小松などという選《え》りすぐり
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