といいましたネ。お竜を見た人間は、そう沢山いないのです。僕は宝塚で二度も見かけて、よく知っています。正にお竜にちがいありません」
「な、なんという大胆な女だろう」
「さあ皆さん、これによっても、蠅男はいよいよこの附近に潜伏していることが明白になったじゃありませんか。一つ元気をだして、蠅男を探しだして下さい」
 帆村の言葉に、一座は急にどよめいた。


   地下に潜る


 こうなったら、死闘である。
 恐るべき機械化された殺人魔を、一日いや一時間でも早く捕えることが出来れば、どれだけ市民は安堵《あんど》の胸をなでおろすか測りしれないのである。
 帆村は、とうとう意を決して、警察側と全然|放《はな》れて、巷《ちまた》に単身、蠅男を探し求めて、機をつかめば一騎うちの死闘を交える覚悟をした。
 それを決行するに当って、糸子の小さな胸を痛めないようにと、帆村は彼女の家を訪ねて事態を説明した。
 糸子は帆村がこの上危険な仕事をすることに忠言を試みたけれど、彼の決意が、市民を一刻も早く安心させたいという燃えるような義侠心《ぎきょうしん》から発していることを知ると、それでも中止するようにとは云えなかった。
「帆村はん。これだけは誓うとくれやす。必要以上に、危険なことをしやはらへんことと、それからもう一つは、――」
「それからもう一つは?」
「それからもう一つはなア、一日に一度だけは、うちへ電話をかけとくんなはらんか。そうしたら、うち安心れて睡られます。よろしまんな」
「はッはッ、まるで坊やとのお約束みたいですが、たしかに承知しました。ではこれで、僕はかえります」
「あら、もう帰ってだすの。まあ、気の早い人だんな。いま貴郎《あなた》のお好きな宇治羊羹を松が切っとりまんがな。拝みまっさかい、どうぞもう一遍だけ、お蒲団の上へ坐って頂戴な」
 糸子は、真剣な顔をして、いっかな帆村を帰そうとはしなかった。
 帆村は予定どおり、夜の闇にまぎれて、浮浪者姿で天王寺公園に入りこんだ。
「こらッ、お前なんや?」
 乾からびた葡萄棚の下に跼《うずくま》ったとき、ロハ台に寝ていた男がムクムクと起きあがって、帆村に剣突《けんつく》をくわせた。
「ああ、おらあ新入りなんだ。こっちの親分さんに紹介してくれりゃ、失礼ながらこいつをお礼にお前さんにあげるぜ」
「な、なんやと。お前、東京者やな。おれに何を呉れるちゅうのや」
 帆村は五十銭玉を掌の上にのせてみせた。かの男は、たちまち恵比寿顔《えびすがお》になって、いやに帆村の機嫌をとりだした。
「ふーン、わしに委《まか》しといたらええねン。大丈夫やがナ。親分の名は藤三《とうぞう》いうのや。紹介したる、さあ一緒についてこい」
 楢平《ならへい》という男の案内で、帆村は藤三親分の配下に臨時に加えて貰うことになった。
 彼はここでも、いささか金を親分に献上することを忘れなかった。
「あんまりパッパッと金を使うのはあかんぜ」
 と、早速《さっそく》親分らしい注意をした。
「へえ、相済みませんです」
 それから藤三親分は、帆村にいろいろと仲間の習慣の話や、縄ばりのこと、持ち場などについて、こまごました注意を与えたのち、
「さあ、これは今夜の、わしからの引出物や。これを一枚、お前にやる」
 と云って、一枚の紙札をくれた。
 帆村が何だろうと思ってみると、それは新別府温泉プールと書いた一枚の入浴券であった。
「へえ、どうもこれは、――」
「今夜入ってきたらええやないか。そこは十日ほど前に建った大浴場兼娯楽場や。もちろんぬかりはあらへんやろが、わし等の行く時間は、午後十二時を廻ってからでやぜ。忘れんようにな。楢平にも、これを一枚やる」
 親分は二枚の入浴券を下された。
 帆村にとっては、甚《はなは》だ迷惑なことであった。そんなことよりも、早く蠅男の所在を探したいのだった。だが親分さまからの折角の下され物である。行かねば、後の祟《たた》りの恐ろしさも考えねばならない。やむなく帆村は、その新別府温泉プールなるものに、楢平とともにでかける決心をした。
 だが、まさか其処《そこ》に、たいへんなものが待ち構えていようとは、ついぞ気がつかなかったのである。


   砂風呂の異変


 楢平と帆村とは、恐《おそ》る恐《おそ》るその新別府温泉プールの入口へ切符を出してみた。
 プールでは、なんと思ったか、たいへん鄭重《ていちょう》に二人の入来を感謝してくれた。それも一に藤三親分の偉力《いりょく》のせいであろうと思われた。
 裸になって浴場へ足を入れてみると、なるほどこれは、入浴ずきの大阪人でなければ、ちょっと出来そうもない広大なる共同浴場であった。その中央に、大理石で張りめぐらされた直径十メートルの円形のプールが作ってあった。そのまわりも広い大理石の洗
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