のであった。
「さあ、そうでございますネ」とカオルはしきりと古い記憶を呼び起そうと努力していたが、「そうそう、あたくし一つ思い出しましたわ」
「ふうむ。それは何ですか」
 と、帆村は思わず膝をのりだした。
「それは――」
 とカオルが云いかけたとき、雇い人が急いで室内にはいってきて、ドクトルがこれから二人に会うからすぐに二階へ来てくれと伝言をもってきた。カオルは遉《さす》がにパッと眸《ひとみ》を輝かし、十五、六年ぶりに瞼の父に会える悦びに我を忘れているようであった。
 カオルと山治とが席を立って、二階へ上っていくのを見送った帆村は、ただ一人気をもんでいた。若き二人をドクトルの部屋にやることがなんとなく非常に不安になってきた。といって、呼ばれもせぬ彼が、後から追いかけてゆくのも変である。帆村はイライラしながら、全身の注意力を耳に集め、なにか階上から只ならぬ物音でも起りはしないかと、扉のかげに寄り添い、聞き耳たてていた。
 一分、二分と経ってゆくが、何の物音もしない。これは自分の取越苦労だったかと、帆村が首を傾けた折しも、「帆村はん。先生が二階でお呼びだっせ。すぐ会ういうてはります」
 と、三度雇い人が、室内に入ってきた。帆村はハッと思ったが、強いて平静を装い、先に案内に立たせ、二階へ上っていった。
「よう、帆村荘六君か。大分待たせて、すまんかったのう。さあ、こっちへ――」
 と、黒眼鏡をかけ、深い髯の中に埋った鴨下ドクトルの顔が、階段の上で待っていた。帆村はドクトルのその声の隅に、何処か聞き覚えのある訛《なま》りを発見した。
 ドクトルは帆村を案内して、書斎のなかに導き入れた。帆村はその部屋の中を素早く見廻して、先客である筈の二人の若き男女の姿を求めたが、予期に反してカオルの姿も山治の姿も、そこには見えなかった。
 ドクトルは入口の扉をガチャと締めながら、
「まあ、そこへお掛け。きょうは何の用じゃな」
 と、皺枯《しゃが》れ声でいった。
 帆村は、中央の安楽椅子の上にドッカと腰を下ろし、腕組をしたまま、
「きょうは一つ貴方に教えていただきたいことがあって参ったのです」
「ナニ儂に教えて貰いたいというのか。ほう、君も老人の役に立つことが、きょう始めて分ったのかな」
「その老人のことなんですよ」と帆村は薄笑いさえ浮べて、
「つまり鴨下老ドクトルを階下のストーブの中で焼き殺した犯人は誰か? それを教えて貰いたい」
「何を冗談いうのじゃ。鴨下ドクトルは、こうして君の前に居るじゃないか。血迷うな。ハッハッハッ」
 生きている鴨下ドクトルに、鴨下ドクトル殺しの犯人を尋ねるというのは狂気の沙汰だった。帆村探偵は遂に逆上をしたのであろうか。
「言うなッ」と帆村は大喝してドクトルを睨《にら》みつけた。「なんだ、その貴様の左腕は何処へ置き忘れて来たのだッ」
「呀《あ》ッ、こいつを知られたかッ」
 と、ドクトルはブラブラの左腕の袖を後に隠したが、もう遅かった。
「さあどうだ、蠅男! 化けの皮を剥いで、両手をあげろッ。無い方の手も一緒に挙げるんだ」
 と、ピストルを擬して帆村は無理なことをいう。
「うわッ、はッはッ」
 と、蠅男は附け髯のなかから哄笑した。
「手前こそ、今度こそは本当に念仏《ねんぶつ》を唱《とな》えるがいい。この室から一歩でも出てみろ。そのときは、手前の首は胴についていないぞ」
 蠅男は、大蟹《おおがに》のような右手の鋭い鋏をふりかざして恐れ気もなく帆村に迫ってきた。
 今や竜虎《りゅうこ》の闘いである。悪竜《あくりゅう》が勝つか、それとも侠虎《きょうこ》が勝つか。生憎《あいにく》と場所は敵の密室中である。部屋の入口には鍵が懸っていた。


   落ちた仮面


「此奴《こいつ》がッ――」
 ドドンと帆村は敢然《かんぜん》引き金を引いた。今や危急存亡《ききゅうそんぼう》の秋《とき》だった……
「うわッはッはッ」
 人を喰った笑い声もろともアーラ不思議、蠅男の身体がドーンと床の上に仆れるが早いか、ガチャガチャと金属の摺れあう音がして、蠅男の胴と手足がバラバラになった。
「呀ッ!」
 と帆村の逡《たじろ》ぐ前に、バラバラになった蠅男の五体は、まるでその一つ一つが独立した生き物のように、物凄い勢いでクルクルと床上を匍いまわり、次第次第に帆村の身近く迫ってくるのであった。勇猛な帆村探偵も、この勝手のちがった相手の攻勢に遭って、手の出し様がなかった。クルクル廻る蠅男の首を狙うべきか、脚を抑えるべきか。
 帆村は咄嗟《とっさ》にヒラリと安楽椅子の上にとび上った。そして手にしたピストルを下に向けて、ドドドーンと乱射した。
「ぎゃッ。――」
 と、途端《とたん》に聞ゆる悲鳴、素破《すわ》ピストルの弾丸が命中したかと思った刹那《せつな》、傍らの壁に突然ポ
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