―」
帆村は不図《ふと》気がついて顔をあげた。糸子が嗚咽《おえつ》しているのだった。
「どうしました」といったが、そのとき帆村はハッと気がついた。「そうだ、この錐なんですよ、あなたのお父さまの生命を奪ったのは……」
糸子はそれに早くも気づき、哀《かな》しい追憶に胸もはりさけるようであったのだ。帆村はいろいろと彼女を慰めることにひと苦労もふた苦労もしなければならなかった。
実は帆村は、まだそれ以上の蠅男の凶器を知っていた。それはその抜け腕の或るところに大豆が通り抜けるほどの穴が腕に沿って三、四個所も明いていたが、ここには元、鉄の棒が入っていたのだ。その棒は彼が拾ってもっていた。あの宝塚の雑木林の中で拾った先端にギザギザのついたあの棒である。あのギザギザは、蠅男が左腕を長く前に伸ばすときに、ちょうど折畳式の写真機の脚をのばすような具合に腕の中からとび出してくる仕掛になっていることに今になって気がついたのである。あの林の中で、蠅男は不注意にも、あれの脱けおちたのに気がつかなかったのだった。しかしあの鉄の棒を拾ったときに、まさかこんな奇怪なカラクリが蠅男の腕にあろうとはさすがの帆村探偵も気がつかなかった。考えれば考えるほど恐ろしい怪物だった。
一体このような恐ろしい怪物がどうして生れたんだろう? それはちょっと解くことのできない深い謎だった。
帆村は蠅男の左腕を前に置いて、ジッと深い考えに沈んだ。それからそのいつもの癖《くせ》で、彼はやたらに莨《たばこ》を吸って、あたりに莨の灰をまきちらした。
「うむ、そうだった」と、何事かに思いあたったらしく彼は突然|呟《つぶや》いた。「これはやはり、蠅男がこれまで通ってきた道を、はじめからもう一度探し直してみる必要がある。蠅男が最初名乗りをあげたのは何処だったか。それは無論鴨下ドクトルの留守中、その奇人館のストーブの中に逆さに釣りさげられていた焼屍体に発しているんだ。あのとき蠅男は、新聞紙を利用した脅迫状に、はじめて(蠅男)と署名をしたのだった。第二の犠牲者は玉屋総一郎、第三の犠牲者は塩田元検事と、ちゃんと身柄が判明しているのに、ああそれなのに奇人館に発見された焼屍体の身許が今日もなおハッキリしていないのは変ではないか。すべて連続的な殺人事件には、必ず何か共通の理由がなければならぬ。蠅男はなぜ三人の人を殺したか。そうだ。その殺人の理由は第一の犠牲者の身許がハッキリさえすれば、ある程度解けるにちがいない。うむ、よオし。それを知ることが先決問題だ。では、これから奇人館に行き、鴨下ドクトルに逢って、手懸りを探しだそう」
帆村珠偵は、何かに憑《つ》かれた人のように血相かえて立ち上ると、それを心配して引きとめる糸子の手をふりはらって、外へとびだした。
果して彼は奇人館に於て、何を発見する?
大戦慄
帆村探偵が、住吉区岸姫町の鴨下ドクトル邸を訪れてみると、そこの階下《した》の応接室には、先客が三人も待っていた。それは大阪へ来たついでに楽しい近県旅行をしていたドクトルの一人娘カオルと情人上原山治と、外に正木署長との三人だった。カオル達は、約束どおりに、帰阪するとすぐさま署へ出頭し、そこで此の前は不在だった父親ドクトルに連れ立って会いにきたものであることが分った。
帆村の名刺も、雇い人の手で二階の研究室にいるドクトルに通じられたが、その返事は、逢うには逢うが、いま実験の途中で手が放せないから暫く待っていてくれとのことだった。
「カオルさんは今度お父さまにまだひと目も会っていないのですか」
と、帆村は座が定まると、ドクトルの令嬢に尋ねた。
「さっきチラリと廊下を歩いている父の後姿を見たばかりですわ」
「そうですか。幼いときお別れになったきりだそうですが、お父さまの姿には何か見覚えがありましたか」
と問えば、カオルは首飾りをいじっていた手をとめ、ちょっと首をかしげて、
「どうもハッキリ覚えていませんのですけれど、幼《ちいさ》いときあたくしの見た父は、右足がわるくて、かなりひどく足をひいていたようですが、今日廊下で見た父は、それほど足が悪くも見えなかったので、ちょっと不思議な気がいたしましたわ」
「ほうそうですか。ふうむ」
と、帆村は腕組をして考えこんだ。
そのとき正木署長のところへ電話がかかってきたとかで、雇い人に案内されて出ていった。が、すぐ署長はとってかえして、急用が出来たから署へ帰る。しかしすぐまた此処へ出直すから後をよろしくと帆村にいってアタフタと出掛けていった。
あとは三人になった。
「するとカオルさん。貴方はなにかお父さまの身体についていた痣とか黒子《ほくろ》とか傷痕とかを憶えていませんか」
と、何を思ったものか帆村はさきほどから熱心になって、カオルに話しかけた
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