まで探しに行ったのに、このなかにはから[#「から」に傍点]紅《くれない》の血潮に染まった怪人の屍体があるかと思いの外、誰も居ない空っぽであった。
帆村は真赤になって地団駄《じだんだ》をふんで口惜しがったが、それとともに一方では安心もした。彼はこの車の中にひょっとすると糸子が入っているかも知れないと思っていたのだ。或いは無慚《むざん》な糸子の傷ついた姿を見ることかと思われていたが、それはまず見ないで助かったというものだ。
「帆村はん。この自動車を運転していた蠅男はどうしましたんやろ」
「さあ、たしかに乗っていなきゃならないんだがなア、ハテナ……」
帆村が小首をかしげたとき、二人は警笛の響きを頭の上はるかのところに聞いてハッと硬直した。
「あれは――」と、崖の上を仰いだ二人の眼に、思いがけない実に愕くべきものが映った。
さっき二人が乗り捨ててきた自動《オート》三輪車のそばに、一人の怪人が立っていて、こっちをジッと見下ろしているのであった。彼は丈の長い真黒な吊鐘《つりがね》マントでもって、肩から下をスポリと包んでいた。そしてその上には彼の首があったが、象の鼻のような蛇管《だかん》と、大きな二つの目玉がついた防毒マスクを被っていた。だから本当の顔はハッキリ分らなかった。ただ丸い硝子《ガラス》の目玉越しにギラギラよく動く眼があったばかりであった。
「呀《あ》ッ、あれは誰だす」
「うむ、今はじめて見たんだが、あれこそ蠅男に違いない」
「ええッ、蠅男! あれがそうだすか」
「残念ながら一杯うまく嵌《は》められた。自動車があの山の端を曲ったところで、蠅男はヒラリと飛び下りて叢《くさむら》に身をひそめたんだ。あとは下り坂の道だ。自動車はゴロゴロとひとりで下っていったのだ。ああそこへ考えがつかなかった。とにかく一本参った。しかし蠅男の姿をこんなにアリアリと見たのは、近頃で一番の大手柄だ」
帆村は下から、傲然《ごうぜん》と崖の上に腕をくんで立つ蠅男を睨《にら》みつけた。
「呀ッ、帆村はん。あいつは味噌樽《みそだる》を下ろしていまっせ」
「うん、蠅男はあの三輪車に乗って逃げるつもりなんだ。僕たちが崖へ匍《は》いのぼるまでには、すくなくとも三、四十分は懸ることをチャンと勘定にいれているんだ。その上、うまく崖の上に匍いあがっても、僕たちに乗り物のないことを知っているんだ。まるで、ジゴマ
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