新聞に出ている殺人魔の蠅男のことだすか」
「そうだ。その蠅男らしいのが、向うに行く自動車のなかに乗っているんだ」
「うへッ。そんなら今あんたと私とで、蠅男を追いかけよるのだすか。うわーッ、えらいこっちゃ。蠅男に殺されてしまうがな。字やかて書けまへん。お断りや」
「また断るのかネ。じゃ、崖から車ごと飛び下りてもいいんだネ」
「うわーッ、それも一寸待った。こら弱ってしもたなア。どっちへ行っても生命がないわ。こんなんやったら、あの子の匂いを嗅ぎたいばっかりにフルーツポンチ一杯で利太郎から宝塚まわりを譲ってもらうんやなかった。天王寺の占師が、お前は近いうち女の子で失敗するというとったがこら正《まさ》しくほんま[#「ほんま」に傍点]やナ」
「さあ長どん。ぐずぐず云わんで早く書いた。向うに人家が見える。紙片を落とすのに都合がいいところだ。――さあ、ペンを持ってハエオトコとやった。――」
「うわーッ、か、書きます。踊っている樽の上でもかまへん。書くというたら書きますがな。しかし飛び下りたらあかんでえ」
 たいへんな手間取りようであったが、遂に帆村の命令が店員長吉によって行われた。長吉は樽の上に腹匍《はらば》いになって、書きにくい字を書いた。そして一枚書けると、それを手帳からひきちぎって外に撒いた。始めは容易に肯《がえ》んじないでも、一旦承知したとなると全力をあげて誠実をつくすのが長吉のいい性格だった。彼はこの困難な仕事を一心不乱にやりつづけた。
 自動車はすっかり山の中へ入ってしまった。怪人の乗った自動車との距離はだんだんと近づいて、あと二百メートルになった。この調子では間もなく追いつくことができるだろう。帆村は歯ぎしり噛んで、ハンドルをしっかりと取り続けた。彼の全身は風に当って氷のように冷えてきた。ガソリンの尽きないことが唯一の願いだった。
 上り道が左の方に曲っている。
 まず怪人の乗った自動車が左折して、山の端から姿を消しさった。続いて帆村と長吉との乗った自動三輪車がポクポクとあえぎながら坂道をのぼっていった。そして同じく山の端《はし》をぐっと左折した。このとき帆村は、前方にこんどは下りゆく自動車が急に道から外れそうになって走るのを見た。
「呀《あ》ッ、危いッ」
 と、声をかけたが、これはもう遅かった。怪人の乗った自動車は、どうしたわけか次第に右に傾いて二、三度揺ぐと見る間
前へ 次へ
全127ページ中59ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング