》しかったが、生憎《あいにく》とズボンを履いていない。帆村は怪人の自動車を追いかけるひまひまに、どてらの禍《か》をくりかえしくりかえし後悔していた。


   現われた蠅男


 帆村探偵の必死の追跡ぶりが、店員先生の鈍い心にも感じたのであろうか、それとも先生の乗った味噌樽があまりにガタガタ揺れるので樽酔いがしたのであろうか、とにかく店員先生は三輪車のうしろに獅噛《しが》みついたまま、もう泥棒などとは喚《わめ》かなかった。
「おう、樽の上のあん[#「あん」に傍点]ちゃんよオ」
 帆村はまた声を張りあげて叫んだ。
「なんや、俺のことか」
「君、何か書くものを持っているだろう」
「持ってえへんがな」
「嘘をつくな、手帳かなんか持っているだろう。それを破いて、二十枚ぐらいの紙切をこしらえるんだ」
 帆村はハアハアと息をきった。自動車との距離はまだ五百メートルぐらいある。
「その紙片をどないするねン」
「ううン。――その紙片にネ、字を書いてくれ。なるべくペンがいい」
「誰が字を書くねン」
「あん[#「あん」に傍点]ちゃんが書いておくれよ」
「あほらしい。こんなガタガタ車の上で、書けるかちゅんや」
「なんでもいい。是非《ぜひ》書いてくれ。そして書いたやつはドンドン道傍に捨ててくれ。誰か拾ってくれるだろう」
「書けといったって無理や。片手離すと、車の上から落ちてしまうがな」
「ちえッ、もう問答はしない。書けといったら書かんか。書かなきゃ、この車ごと、崖の上から飛び下りるぞ。生命が惜しくないか。僕はもう気が変になりそうなんだ。ああア、わわア」
 これが店員先生に頗《すこぶ》る利いた。
「うわッ、気が変になったらあかへんが。書くがな書くがな。書きます書きます、字でも絵でも何でも書きます。ええもしどてら[#「どてら」に傍点]の先生、気をしっかり持っとくれやすや。気が変になったらあきまへんでえ」
 帆村は向うを向いて苦笑いをした。
「君の名は何という」
「丸徳商店の長吉だす」
「では長どん。いいかネ、こう書いてくれたまえ。――蠅男ラシキ人物ガ三五六六五号ノ自動車デ宝塚ヨリ有馬方面へ逃ゲル。警察手配タノム、午後二時探偵帆村」
「なんや、ハエオトコて、どう書くんや」
「ハエは夏になると出る蚊や蠅の蠅だ。オトコは男女の男だ。片仮名で書いた方が書きやすい」
「うへーッ、蠅男! するとこれはあの
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