判りましたよ」木戸氏は、急に手を停めて云った。
「数日前、誰かフィルムの一節を切取って行った奴がいるのです、そしてそのまま後を接いで置いたものだから、あんな風に不連続なのです。これに私も気がついたものだから、別にして置いたのですが、誰かが間違えて編集ズミのフィルムへ接いでしまったというわけです」
「フィルム切取りですって?」と帆村は体を乗り出して、
「そんなにいい場面が映っていたのですか」
「そんなんじゃないんです。酔っぱらいをがやがや云って女給が送りだすところですから、何のいいところがありましょう」
「可怪《おか》しいじゃありませんか」
「ええ、可怪しいと云えば、可怪しくないこともないのですが……」
「なんですって?」
「木戸君、この人は探偵趣味があってね、そういう変なことを面白がるのだよ、訳を話してやり給え」
と、私が説明してやると、木戸は、それなれば――と云って非常に真面目くさった顔で、フィルム切取り異変について語りだした。
――このフィルムは四月二十九日の撮影にかかるものであるが(二十九日というと、玲子が刑事に取調べられた日ではないか!)すっかり現像がこの編集部へ廻って来たのが、三十一日の朝だった。そこで彼はそれを映写機にかけて、台本と較べながら、音画校正をやったのであった。ところが例の「カフェの送り出し」のところで、玲子の云う台辞《せりふ》がまるで違っている個所があった。そこで彼は台本の上に赤い傍線をつけると共に、「カフェの送り出し」の一節のフィルムを別にして、監督へ報告の手続をして置いた。
監督は電話をかけてきて、(その場面は、物語の筋と直接関係のない個所だから、その儘で差支えない)と返事してきた。そしてフィルムは、あとで給仕が持って来たのであった。監督はそれでいいとして、尚も旅行中の脚本係長に相談するつもりで、その儘別にしてあったところ、今朝気がついて見ると、あのようにフィルムの一節が切り取られてあった。
「私の合点がゆかないことはですね」と木戸は言葉尻に力を入て、「不思議にもフィルムの切取られた箇所と、台辞の間違っている箇所が一致しているのです。偶然の暗合にしてはあまりに合いすぎるので、これは誰かの故意の切取りと見ました。監督にも云って置きましたから、今日は後ほど、台辞の当人である三原玲子氏にも訊いてみることになっています……如何です、不思議でしょう」
「…………」帆村は余程感動したらしく、無言で頤《あご》をつねっていた。
私は、わが三原玲子が、たった半日の間に不思議な噂の中に浮きつ沈みつするようになったことを恐ろしく思った。果して彼女は「暁団」の団員であろうか。そして一体何のために、台辞を間違えたり、それからそのフィルムを盗まれたりするのだろう。それが何か錨健次の非業な最期や、暁団対黄血社の闘争に関係があるのだろうか。奇怪といえば奇怪であった。彼女に搦《から》まる「獏鸚」の謎は、どこまで拡がってゆくのだろう。
「木戸さん、三原さんの間違えたという台辞は今お判りでしょうか」と帆村が突然口を開いた。
木戸は肯くと、室を出ていったが、間もなく一冊の仮綴の台本を持ってきた。その表紙には「銀座に芽ぐむ」と大書せられてあった。
「ここですよ――」
彼が拡げたところを見ると、ガリ版の文字が赤鉛筆で消されていた。その文句は、玲子役の女給ナオミの台辞として、
「……まっすぐに帰るのよ。またどっかへ脱線しちゃいけないわよ。もしそうだったら、こんどうんと窘《いじ》めてやるから……」
と与えられているのに、トーキーで彼女が実際に喋った台辞の方は、「あらまそーお、マダム居ないの、騙《だま》したのね。外は寒いわ、正に。おお寒む」
というのであった。なるほど、これでは前後の台辞の続き工合がすこし変であった。
「これは面白い……」と帆村は手帖に書きとめて、
「……アラマソーオ、マダムイナイノ、ダマシタノネ、ソトハサムイワ、マサニ、オオサム……。これは面白いぞ」
としきりに面白がって、同じ文句を読みかえすのであった。
「帆村君、どうして台辞なんか間違えたんだろう」
「なあにこれは一種の暗号だよ。……『獏鸚』以上の隠し文句なんだ」帆村がそう云ったとき、俄かに入口の方にがやがやと人声がして、誰かこっちへ跫音も荒く、近づいて来る者があった。……。私は扉の方へ、振りかえった。
と、そこへ扉を排して現れたのは、私もかねて顔見知りの警視庁の戸沢刑事だった。
「これは……」と戸沢名刑事は帆村の方を呆れ顔で眺めてから、ぶっつけるように云った。
「帆村君、えらいことが起ったよ」
「えらいことって何です。戸沢さん」と帆村もちょっと突然の戸沢刑事の来訪に駭きの色を見せた。
「江東のアイス王、田代金兵衛が失踪したんだよ、今日解ったんだがね」
「あッ、あの田代がですか」
「ほんとに迂濶《うかつ》だった。失踪したのは、取調べの結果、先月の二十九日、つまり三日前だった。そいつに誰も気がつかなかった……」と口惜しそうだ。
「旅行でもないんでしょうネ」
「どうして、旅行じゃない。表の締りもないしさ、居間も寝室も、それから地下道への入口も開いていて、彼が其処に居なければならない家の中の様子だのに、姿が見えない」
「例の地下にある田代自慢の巨人金庫は如何です」
「ほう、君も巨人金庫のことを知っているんだね」と戸沢刑事はにやりと笑い、「金庫は外見異常なしだ。あの複雑なダイヤルの上にも鉄扉にも、怪しい指紋は残っていない。内部を見たいのだが、暗号が見当らないので弱ってしまう」
「ああ、暗号ですか」と帆村は何気なく聞きかえした。
「あいつは黄血社と暁団とで狙っていたものだ。黄血社はあの金庫の真上にあたる地上に家を建てて、地下道を掘ろうと考えている。……今度とうとう尻尾をつかんでやったがね。しかし金兵衛の失踪は、前の番頭である錨健次殺しと共に、暁団の演出に違いないと思うんだ。……本庁ではいま暁団を追いまわしているんだが、敏捷な奴で、団長の江戸昌をはじめ団員どもがすっかり何処かへ行ってしまった。こんなことは前代未聞さ。不良少年係でそろと、俺はもう威張っていられなくなったよ……」名刑事は白髪のだいぶん目立つ五分刈の頭を抑えて、淋しい顔をした。
「そうですか。では田代老人の金庫を廻って、暁団と黄血社の死にもの狂いの闘争が始まったんですね」
「で、貴方の此処へお出になった御用は……」と帆村は訊ねた。
「俺かい。俺は暁団の一味として、三原玲子を捕えにやって来たんだが……」
「三原玲子がどうかしましたか」
「先刻まで居ったそうだが、どこかへ隠れてしまったよ。はっはっ、なっちゃいない、全く」
名刑事は空《うつ》ろな笑い声をあげて、自らを嘲笑した。私は老刑事の心中を思いやって眼頭が熱くなるのを覚えた。
「……私が探し出しましょう、戸沢さん」
帆村は決然として云い出した。
「君が探す?」と刑事は帆村を見て、「そうか、頼むよ。……だが、江戸昌も死にもの狂いだ。気をつけたがいい」
5
「……あらまそーお、マダム居ないの。騙したのね。外は寒いわ、正に。おお寒む……」
帆村は、決戦の演ぜられているという江東を余所に、自宅の机の前に座って、三原玲子が間違えて喋ったという例の台辞を、譫言《うわごと》かなにかのように何遍も何遍もくりかえして呟《つぶや》いた。――暗号といえば「獏鸚」のことなど、すっかり忘れたように見えた。「どうしても、この文句の中に、暗号が隠れていなければならない。こいつはきっと、あの江東のアイス王の巨人金庫を開く鍵でなければならぬ!」
そういう信念のもとに、帆村は世間のニュースを耳に留めようともせず、只管《ひたすら》にこの暗号解読に熱中した。――その間、江東のアイス王の金庫はいくたびとなく専門家の手で、ダイヤルを廻されたり、構造を調べられたりしたが、大金庫は巨巌のようにびくりともしなかった。
そのうちにも、暁団の捜査が続けられたが、彼等は天井裏から退散した鼠のように、何処へ潜《ひそ》んだのか皆目行方が知れなかった。
そうなると得意なのは黄血社の連中だった。
ダムダム珍は、例の巣窟に党員中の智恵者を集めて、鳩首《きゅうしゅ》協議を重ねていた。秘報によると、それは暁団の不在に乗じて、警戒員の隙を窺《うかが》い、例の金庫から時価一億円に余るという金兵衛の財宝を掠《かす》める相談だとも伝えられ、また予ねて苦心の末に手に入れた暁団の秘密を整理して当局に提出し、一挙にして暁団を地上から葬ろうという相談だとも云われた。
「一体何処へ隠れてしまったのだろう?」
巨人金庫の前に詰めていた特別警備隊も、二日、三日と経つと、すこし気がゆるんできた。そして空しく巨億の財産を嚥《の》んでいる大金庫を憎らしく思い出した。
そのとき、わが友人帆村は、幽霊のようになって、その穴倉の中に入ってきた。――警備員はそれを見るなり皮肉な挨拶をするのであった。
帆村は黙々として、ポケットからノートを出した。右手をダイヤルに伸べ、左手で電気釦を押しながら、私の差しだす懐中電灯の明りの下で、彼の誘き出した第一、第二等々の解読文字を一つ一つ丹念に試みていった。――しかし今日もまた空《むな》しい努力に終ったのだった。
「いよいよ二三日うちにこの金庫を焼き切ることにしたそうだ……」
と、そんな噂が耳に入った。その噂だけが今日の皮肉な土産だった。
家にかえると、帆村は黙々として、また白紙のうえに、鉛筆で文字を模様のように書き続けるのだった。
「どうしたい。ちと憩《やす》んではどうか」
と私は彼に薦《すす》めた。
「もうすこしで解けるのだが……。これを見給え」
帆村は次のような紙片を私に見せた。
[#ここから3字下げ、19字詰め、罫囲み]
ム[#「ム」に丸傍点]サオオニサ」マ[#「マ」に丸傍点]ワイ」ム[#「ム」に丸傍点]サワトソネノタシ」マ[#「マ」に丸傍点]ダノイナイ」ム[#「ム」に丸傍点]ダマオオソ」マ[#「マ」に丸傍点]ラア」
[#ここで字下げ終わり]
「これは例の文句を逆さに書いたのだよ。そして、或る間隔をとって、ム[#「ム」に丸傍点]とマ[#「マ」に丸傍点]とが入れ違いになっているところに注意してみたまえ。答はこれしかないと思うのだ、ム[#「ム」に丸傍点]とマ[#「マ」に丸傍点]のところで金庫のダイヤルの廻転方向を右と左とに変えるのだ。だからム[#「ム」に丸傍点]とマ[#「マ」に丸傍点]とが、丁度頃合いの間隔を保って互に入れ違いになっているのだ」
「ほほう」私は帆村の熱心さに駭かされた。
「だが忌々《いまいま》しい畜生! ここまで判っているのに、実際やってみると、巨人金庫はびくりとも動かないのだ」と帆村は唇を噛んで「全くこれ以上の答はないと思う。それだのに開かないとは、ああ、どこが間違っているのだろう」
帆村は紙を抛《ほう》りだして、頭髪をかき※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》った。
「ねえ、君」と私は恐る恐る声をかけた。「そのマダムが何とかしたという文句もいいが、例の『獏鸚』の方はどうしたのかネ」
「うん『獏鸚』か。あれならもう判っている……」
「ナニ『獏鸚』が判ったって、そいつは素敵だ。早く話したまえ」
私は飛び上らんばかりに悦んだ。怪物「獏鸚」とは、そも何者ぞ!
「だが、玲子の台辞が解けない前には云えないのだ。間違っているかも知れんからね」
「連絡があるのなら、いいじゃないか。早く云って訊かせ給え」
「連絡? それはあるさ」と帆村は遠くの方を眺めるような眼眸《まなざし》をして、「まず『獏』は夢を喰いさ、それから『鸚』の方は……」
そのとき帆村の顔面に、痙攣のようなものがつつーっと走ったのを認めた。彼は急に手の指をわなわな慄わせて口へ持ってゆきながら、頓狂に叫んだ……。
「僕は莫迦だった。ど、どうして其処に気がつかなかったろう!」
「其処とは、どこだ」と私は慌てて、ついそんな愚しいことを訊きかえさずにいられなかった。
「うん、いまに判
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