続きを催促した。
「……イヤア失敗だ。こっちがつい固くなったものだから、女の手から西洋紙――つまりそれが密書だった――それを受取るのに暁団の作法を間違えてしまった。女は駭《おどろ》いて、一旦渡した密書をふんだくる、僕は周章《あわ》てて、腕を後に引く……結局、さっき君が見たあの三角形の小さい紙片だけが手の中に残っただけ……。僕は生命からがら喫茶店ギロンから脱出したというわけさ……」
と云って帆村は、まだ火もつけていない紙巻煙草をポツンポツンと※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》りちらした。が、急にくるりと私の方に振向いて、
「どうだい、君の力で以上の話の中から、何か『獏鸚』らしきものを引張りだせるかい」
「ノン――」私は首を左右に振った。「BAKUOOのBAの字もありはしない」
「やっぱり駄目だね。なんという六ヶ敷《むずかし》い連立方程式だろう。もっとも方程式の数が、まだ足りないのかも知れない」
「おい、帆村君。君は獏とか鸚鵡についても研究してみたかい」
「それはやってみたよ」と彼は不服そうに云った。「獏は哺乳類のうちの奇蹄目《きていもく》で獏科の動物だ。形は犀《さい》に似て、全身短毛をもって掩《おお》われ、尾は短く、鼻及び上唇は合して短き象鼻《ぞうび》の如くサ。前肢《まえあし》に四|趾《し》、後肢に三趾を有す。胴部より腰部にかけて灰白色の一大斑あり、その他は殆んど黒色をなす。――この一大斑というのが、ちょっと気になるのだ。絵で見ると判るが(と彼は壁にかけた獏の写真を指さしながら)、胴のところで丁度接ぎあわせたようになっているじゃないか」
「うん。それから……」
「それから?……獏は性|怯《きょう》にして、深林に孤棲《こせい》し、夜間出でて草木の芽などを食す。いやまだ食うものがある。人間が夜見る夢を食うことを忘れちゃいけない。産地は馬来地方……」
「もう沢山だ」と私は悲鳴をあげた。
「では鸚鵡は鳥類の杜鵑目《とけんもく》に属し、鸚鵡科である。鸚鵡と呼ぶ名の鳥はいないけれど、その種類はセキセイインコ、カルカヤインコ、サトウチョウ、オオキボウシインコ、アオボウシインコ、コンゴウインコ、オカメインコ、キバタン、コバタン、オオバタン、モモイロインコなどがある。この中でよく人語を解し、物真似《ものまね》をするのはオオキボウシインコ、アオボウシインコ、コバタン、オオバタン、モモイロインコである。おのおの形態を比較するに、まずセキセイインコについて云えば、頭及び翕《つばさ》は黄色で……」
「わ、判ったよ。君の動物学についての造詣《ぞうけい》は百二十点と認める――」
私は耳を抑えて立ち上った。私には鸚鵡の種類などを暗記する趣味はない。
「なアに、まだ三十五点くらいしか喋りはしないのに……」
「もう沢山だ。……しかし動物学の造詣で探偵学の試験は通らない。獏といえば夢を喰うことと鸚鵡といえば人語を真似ることだけ知っていれば、充分だよ」
「そうだ、君の云うとおりだ」と帆村は手を敲《う》った。「そんなわけで、だいぶん僕もくしゃくしゃしているところだから、そうだ君のお誘いに敬意を表して、トーキーの撮影を観に連れていって貰おう」
「大いに、よろしい」
私は悦《よろこ》んで立ち上った。獏鸚に悩むよりは綺麗な女優の顔を見て悩む方がどのくらい楽しいかしれやしないと思った。しかし帆村をトーキー撮影所に誘ったばかりに、生命からがらの大事件に巻きこまれようなどとは神ならぬ身の知るよしもなかったのである。
3
桜の名所の玉川べりも、花はすっかり散って、葉桜が涼しい蔭を堤の上に落していた。そうだ、きょうからもう五月に入ったのだ。
帆村を案内しようという東京キネマの撮影所は、ちかごろトーキー用の防音大スタディオを建設したが、それが堤の上からよく見えた。
門を入ると、馴染《なじみ》の門衛が、俄《にわ》かに笑顔を作りながら出て来た。
「お連れさんは?」
「これは俺の大の親友だ。帆村という……」
「よろしゅうございます。……ところで貴方に御注意しときますがな、どうも余り深入りするとよくありませんぜ」
と門衛は改まった顔で意味深長なことをいった。
「なんだい、深入りなんて?」
「……」彼はこれでも判らないかというような顔をしたのち「あれですよ、三原玲子さんのことです。貴方の御贔屓《ごひいき》の……」
「これこれ」
私は帆村の方をちらと見たが、彼はスタディオの巨大なる建物に見惚《みと》れているようであった。
「三原玲子がどうかしたかい」
「この間、刑事がここへずかずかと入ってきましてね。あの娘を裸にして調べていったのですよ」
「そりゃ越権だナ。裸にするなんて……」
「尤も是非署へ引張ってゆくといったんですが、所長が今離せないからと頼みこんだのです。その代り、桐花カスミさんなどの女連が立ち合って裸の検査ですよ」
「ど、何うしたというんだ」
「よくは判りませんが、何か探すものがあったらしいのですよ。でも、まア三原さんの体からは発見されないで済んだようですが外に二人ほど男優とライト係とが拘引《こういん》されちまって、まだ帰ってこないのです。とにかくあっし[#「あっし」に傍点]は三原玲子さんばかりはお止しなさいと云いますよ」
「変なことを[#「変なことを」は底本では「辺なことを」]云うなよ、はっはっはっ」
私は帆村の待っている方へ行って、彼を撮影場の方へ誘った。
「いまの三原レイ子とかいうのは、何うしたのだ」帆村はもうちゃんと聞いていた。
私はすっかり照《て》れてしまった。が、隠してももう隠しきれないと思ったので、彼に一と通り説明をした――三原玲子というのは、この東キネの幹部女優桐花カスミの弟子に当る新進のインテリ女優だった、彼女は私と一緒にL大学の理科の聴講生だったことがあって、それで旧知の仲だった。その玲子はあまり美人とは云えない方で、スクリーンに出ることはまず稀で、もっぱら桐花カスミの身の周りの世話をして重宝がられていた。蒼蠅《うるさ》い世間は、玲子の殊遇《しゅぐう》が桐花カスミとの同性愛によるものだろうと、噂していたが、それは嘘に違いない。……私の知っていることはそれだけだというと、帆村はひとの顔を穴の明くほど見詰めて、やがてにやりと嗤《わら》った……。
厳重ないくつかの関所を通って、私達は漸くトーキースタディオに入ることができた。中へ入ると、一切の騒音は、厚いフェルトの壁に吸いとられて、耳ががあんとなったような感じがした。声を出してみると、ばさばさという音しか出ず、変な工合だった。ホールの真中には、銀座の四つ角のセットが立っていて、その前で現代劇の撮影が始まっていた。大勢の男女優が、いろいろの服装をして、シャツ一枚の撮影監督の指揮に従って、あっちへ行ったり、こっちへ来たりしていた。――虫籠のようなマイクロホンが、まるで深淵《しんえん》に釣を垂れているように、あっちに一つ、こっちに一つとぶら下っている。
「見給え、あれが桐花カスミだ」
と私は帆村に主役の女優を教えた。
帆村は一向気がないような顔をして、トーキー撮影場の天井ばかり見上げていた。
「それからついでに紹介するが、あすこでルージュを使っているのが、例の三原玲子さ」
「三原玲子?」帆村は初めて眼を天井から、群衆の方に移した。「おお、あの女が……」
帆村はなにに駭いたか、私の腕をしっかり握って目を瞠《みは》った。私はその場の事情を解しかねたが、彼はどうやら玲子を前から知っていたらしい。
「おい出よう」
いま入ったばかりなのに、帆村は私を無理やりに引張って外へ連れ出した。
私はすくなからず不満だった。それを云うと、帆村は私を宥《なだ》めていった。
「興奮してはいけないよ。あの三原玲子という女は、例の暁団の一味なんだ。何を隠そう、ギロンで僕に密書を渡そうとしたのは正しくあの女なんだ」
「何だって? 玲子が暁団員……」
何という意外なことだろう。人もあろうに玲子が暁団に関係しているとは。私はさっき門衛から聞き込んだことを思い合せた。こうなれば、早く帆村に知らせてやるほかない。
「僕は今暫く玲子に見られたくないのだ」と帆村は深刻な表情をして云った。「しかし彼女が例の女に違いないということをもっと確かめたい。どこかで写真を見せて呉れないかしら」
「さあ、――」
「とてものことに、動いているやつ――つまり活動写真で見たいね。試写室はどうだろう」
試写室というわけにも行くまい。私は考えて、彼をフィルムの編集室へ連れてゆくのが一番簡単であり、そして自由が利くと思った。――それを云うと、帆村は満足げに、大きく肯いた。
フィルム編集室は、スタディオからかなり離れたところにあった。そこに働いている連中とは前々からよく知り合っていた。
「桐花さんのフィルムを映してみせてくれないか、この人が見たいというので……」
というと、木戸という編集員が出てきて、
「じゃあ、いま撮影中だけれど『銀座に芽《め》ぐむ』の前半を見せましょうか」と気軽に引受けてくれた。
帆村と私とは、狭い編集用の試写室の中に入って黒いカーテンを下ろした。
「スタディオが出来て、録音がとてもよくなりましたよ……」
木戸氏は映写函の中から、私たちに自慢をした。やがて小さいスクリーンに、ぶっつけるような音が起ると、現代劇「銀座に芽ぐむ」が字幕ぬきでいきなり映りだした。
帆村は私の隣りで熱心に画面を見ているようだったが、三原玲子はなかなか現われてこなかった。そして暫くすると口を私の耳のところに寄せて囁《ささや》いた。
「ちょっと可笑しいことがあるぜ。……桐花カスミの声は実物より迚《とて》も良すぎるじゃないか。さっき聴いて知っているが、これはどうも桐花カスミの声ではないようだ」
この質問には、実のところ私は、帆村の注意力の鋭いのに駭かされてしまった。
本当のことを云えば――これは会社の大秘密であるけれども……、桐花カスミの悪声について一つのカラクリが行われているのだった。トーキー時代が来ると、桐花カスミの如きはまさに映画界から転落すべき悪声家だった。しかし実を云えば彼女は某重役の籠《かこ》い者であったから、そこを無理を云って、辛うじて転落から免れた。さりながら重役とても、会社の映画の人気がみすみす墜落してゆくのを傍観していられないから、そこでこのカラクリの手を考えた。――三原玲子は、実は桐花カスミの「声の代演者」だったのである。
声の俳優――そして三原玲子は、会社の秘密の役を演じ、桐花カスミを助けていたのであった。それは何という奇異な役柄であったろう。そんなわけで、三原玲子の存在は、一般ファンには殆んど知られていなかったのである。――そのことを手短かに帆村に語ってやると、流石《さすが》の彼も感にたえかねたか、首を左右にふりながら、
「姿なき女優――はて、どこかで聴いた様な言葉だが……」
と呟《つぶや》いた。
4
桐花カスミは、ミス銀座といわれる美人売り子に、三原玲子の方は不良の情婦で、裏町の小さいカフェに女給をしているというしがない役割で、一人の大学生をめぐって物語が伸びてゆくという中々いいところで、試写映画はぷつんと切れてしまった……。
「如何です。もう一本かけましょうか」
木戸氏がにこにこして函から出てきた。私は帆村の顔を見た。――彼はじっと考えこんだ眼の焦点を急に合せ乍ら、
「……今の映画の終りの方に、変なところがありましたね。カフェの場、三原玲子さんなどの女給連総出で花見がえりらしい酔っぱらいをがやがや送って出るところで、画面がいきなり飛んで不連続になるところがありましたよ」
と云い出した。
「そうですか」と木戸氏は怪訝《けげん》な顔をして云った。「はてな、すると先刻のやつと間違って接いでしまったのかな」
木戸氏は函の中に入って、フィルムの入った丸い缶を持ちだした。そして手馴れた調子でぴらぴらとフィルムを伸ばしては窓の方に透《すか》してみるのであった。
「ああ
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