ゃ、いってらっしゃい。夕方には、早く帰ってくるのよ」
彼は膨《は》れぼったい眼を気にしながら出ていった。
使用人の居ないこの広い邸宅は、まるで化物屋敷のように、静まりかえっていた。一週に一度は、派出婦がやって来て、食料品を補《おぎな》ったり、洗い物を受けとったりして行くのが例だった。いつまで寝ていようと、もう気儘《きまま》一杯にできる身の上になった。呼びつけては、気短かに用事を怒鳴《どな》りつける夫も居なくなった。だからいつまでもベッドの上に睡っていればよかったのであるが、どういうものか落付いて寝ていられなかった。
あたしは、ちぐはぐな気持で、とうとうベッドから起き出でた。着物を着かえて鏡に向った。蒼白い顔、血走った眼、カサカサに乾いた唇――
(お前は、夫殺しをした!)
あたしは、云わでもの言葉を、鏡の中の顔に投げつけた。おお、殺人者! あたしは取返しのつかない事をしてしまったのだ。窓の向うに見える井戸の中に、夫の肉体は崩れてゆくだろう。彼にはもう二度と、この土の上に立ち上る力は無くなってしまったのだ。鉛筆の芯が折れたように、彼の生活はプツリと切断してしまったのだ。彼の研究も、
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