いる。すぐ後にいるあたしにも気がつかない。機会《チャンス》!
「ええいッ!」
ドーンと夫の腰をついた。不意を喰らって、
「なッ何をする、魚子《うおこ》!」
と、夫は始めてあたしの害心《がいしん》に気がついた。しかし、そういう叫び声の終るか終らないうちに、彼の姿は地上から消えた。深い空井戸の中に転落していったのだ。懐中電灯だけが彼の手を離れ、もんどり打って草叢に顎《あご》をぶっつけた。
(やっつけた!)と、あたしは俄《にわ》かに頭がハッキリするのを覚えた。(だが、それで安心出来るだろうか)
「とうとう、やったネ」
別な声が、背後《うしろ》から近づいた。松永の声だと判っていたが、ギクンとした。
「ちょっと手を貸してよ」
あたしは、拾ってきた懐中電灯で、足許《あしもと》に転がっている沢庵石《たくあんいし》の倍ほどもある大きな石を照した。
「どうするのさ」
「こっちへ転がして……」とゴロリと動かして、「ああ、もういいわよ」――あとは独りでやった。
「ウーンと、しょ!」
「奥さん、それはお止しなさい」と彼は慌《あわ》てて停めたけれど、
「ウーンと、しょ!」
大きな石は、ゴロゴロ転がりだした。そして勢《いきお》い凄《すざま》じく、井戸の中に落ちていった。夫への最後の贈物だ。――ちょっと間を置いて、何とも名状《めいじょう》できないような叫喚《きょうかん》が、地の底から響いてきた。
松永は、あたしの傍にガタガタ慄《ふる》えていた。
「さア、もう一度ウインチを使って、蓋をして頂戴よオ」
ギチギチとウインチの鎖《くさり》が軋《きし》んで、井戸の上には、元のように、重い鉄蓋が載せられた。
「ちょっとその孔《あな》から、下を覗《のぞ》いて見てくれない」
鉄蓋の上には楕円形《だえんけい》の覗き穴が明いていた。縦が二十センチ横が十五センチほどの穴である。
「飛んでもない……」
松永は駭《おどろ》いて尻込《しりご》みをした。
夜の闇が、このまま何時《いつ》までも、続いているとよかった。この柔い褥《しとね》の上に、彼と二人だけの世界が、世間の眼から永遠に置き忘られているとよかった。しかし用捨《ようしゃ》なく、白い暁がカーテンを通して入ってきた。
「じゃ、ちょっと行って来るからネ」
松永は、実直な銀行員だった。永遠の幸福を思えば、彼を素直に勤め先へ離してやるより外はない。
「じゃ、いってらっしゃい。夕方には、早く帰ってくるのよ」
彼は膨《は》れぼったい眼を気にしながら出ていった。
使用人の居ないこの広い邸宅は、まるで化物屋敷のように、静まりかえっていた。一週に一度は、派出婦がやって来て、食料品を補《おぎな》ったり、洗い物を受けとったりして行くのが例だった。いつまで寝ていようと、もう気儘《きまま》一杯にできる身の上になった。呼びつけては、気短かに用事を怒鳴《どな》りつける夫も居なくなった。だからいつまでもベッドの上に睡っていればよかったのであるが、どういうものか落付いて寝ていられなかった。
あたしは、ちぐはぐな気持で、とうとうベッドから起き出でた。着物を着かえて鏡に向った。蒼白い顔、血走った眼、カサカサに乾いた唇――
(お前は、夫殺しをした!)
あたしは、云わでもの言葉を、鏡の中の顔に投げつけた。おお、殺人者! あたしは取返しのつかない事をしてしまったのだ。窓の向うに見える井戸の中に、夫の肉体は崩れてゆくだろう。彼にはもう二度と、この土の上に立ち上る力は無くなってしまったのだ。鉛筆の芯が折れたように、彼の生活はプツリと切断してしまったのだ。彼の研究も、かれの家族も(あたし独りがその家族だった)それから彼の財産も、すべて夫の手を離れてしまった。彼は今日まで、すっかり無駄働きをしたようなものだ。そんなことをさせたのは、一体誰の罪だ。殺したのは、あたしだ。しかし殺させるように導いたのは夫自身だったじゃないか。他の男のところへ嫁《とつ》いでいれば、人殺しなどをせずに済んだにちがいない。あたしの不運が人殺しをさせたのだ。といって人殺しをしたのは此の手である。この鏡に写っている女である。もう拭《ぬぐ》っても拭い切れない。あたしの肉体には、夫殺しの文字が大きな痣《あざ》になっているのに違いない。誰がそれを見付けないでいるものか。じわりじわりと司直《しちょく》の手が、あたしの膚《はだ》に迫ってくるのが感じられる。
(ああ、こんな厭《いや》な気持になるのだったら、夫を殺すのではなかった!)
押しよせてくる不安に、あたしはもう堪《た》えられなくなった。なにか救《すく》いの手を伸《の》べてくれるものは無いか。
「そうだ、有る有る。お金だ。夫の残していった金だ。それを探そう!」
いつか夫が、莫大《ばくだい》な紙幣《さつ》の札を数えているところへ、入って
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