が気がついたときは、望遠鏡を握る佐伯船長の腕が、なぜかぶるぶると慄《ふる》えていたのであった。
「船長、ボートの中になにが見えます?」
「うむ」
佐伯船長は、望遠鏡を眼からひき離すように下ろして、ほっと溜息《ためいき》をついた。それはまるで悪夢からさめた人のようであった。船長は、なにかしらないが、ボートの中に思《おも》いがけないものを発見したらしいのである。
「船長、なにが見えましたか」
局長にさいそくされて、船長は、いまはもう仕方がないとあきらめたように、
「おう、皆よく聞け。わしは望遠鏡をとって、あそこに漂流する二号艇ボートを仔細《しさい》に見たのだ。ところが、前にわしはボートのうえに櫂もなければ、人影もないといったが、いまよく見てみると、ボートの中は、全然空っぽではなかった」
船長は、わざとまわりくどいいい方をしているようであった。
「で、なにが二号艇内に見えるのですか。船長、はやくいってください」
「血だ、血だ! 二号艇のなかは、血だらけなんだ」
「えっ!」
船員たちはおどろきのあまり、思わず櫂の手をゆるめた。ボートは、ぐぐっと傾き、いまにもひっくりかえりそうになった。
「おう、しっかり漕げ、日本の船乗が、こんなことぐらいで腰をぬかしてどうするのか。さあ、はやく二号艇へ漕ぎよせろ」
船長は、舷《ふなべり》をぴしゃぴしゃ叩いて、船員たちを叱りつけた。
一号艇は、また矢のように海面を走りだした。漕ぎ手たちは、おどろきをおさえて、ひたむきに漕いだ。
「櫂やすめ」――船長の号令がかかった。
漕ぎ手たちは、はじめて左右をふりかえった。二号艇は、もう手をのばせば触《ふ》れんばかりの近くにあった。彼等の眼は、電光のように早く、二号艇のうえにおちた。
「あっ。ひでえことになっていらあ」
「おお、これは一体どうしたというわけだろう?」
「あ、あんなところに千切《ちぎ》れた腕が」
二号艇のなかのことを、どのように書きつづればいいであろうか。あまりの惨状《さんじょう》に、書きあらわす文字を知らない。
とにかく艇内は、血しぶきで顔をそむけたいほどの惨状を呈《てい》していた。満足な身体をもった人間は、ただの一人も艇内に発見されなかったけれど、千切れた腕や脚や、そのほかたしかに人骨《じんこつ》と思われるものが血にまみれて、艇内におびただしくちらばっていた。
「なんということだろう、この光景は?」
おちつき船長として有名な佐伯も、この思いがけない僚艇の惨状に、顔の色をうしなった。
謎の裂《さ》き傷《きず》
「これは、遭難して漂流中、仲間同志で喧嘩したのじゃありませんか。そこで、ジャック・ナイフでたがいに渡りあって、こんなことになった!」
船員の一人が、このひどい光景に説明をこころみた。もっともな考え方であった。
だが船長は、すぐそれに反対した。
「いや、ちがう。それはちがうだろう」
「でも、そうとしか考えられませんね」
「たしかにそれはちがう。第一、われわれの仲間がこんなひどい殺人合戦をやるとは考えられない。第二に、もしそんなことがあったとしても、人骨《じんこつ》ばかりにするというようなひどい殺し方をやる者が、われわれ仲間にあろうとは信じられない。しかも昨日の今日のことだからね」
船長は、さすがに眼のつけどころがちがっていた。
どんな喧嘩のたねがあったにしろ、わずか一夜のうちに、二十名以上もあった二号艇の乗組員が一人も見えなくなり、人骨と千切れた手足だけをのこすばかりとなったとは考えられない。
船長は、自分の胸のうちを冷たい刃物がさしつらぬいてゆくように感じたのだった。
船員たちは、急にだまりこんでしまった。見れば見るほど、眼をそむけたいような惨状である。あの親しかった仲間の誰かれは、一体どうなったのであろうか。なにごとかはわからないが、この二号艇の乗組員たちをみな殺しにした不吉な死の影は、いつまた一号艇のうえにおちてくるか分らないのだ。
古谷局長は、さっきからだまりこくって、二号艇の無慚《むざん》な光景にむかっていた。彼は、あの二号艇にのりこんでいた部下の丸尾技士の安否《あんぴ》について、いろいろと考えていたのだ。あの好青年も、ついにおなじ脱《のが》れられない運命のもとに死んでいったのであろう。ひょっとすると、あそこに散らばっている千切れた手首が、電鍵を握ってはかなうもののない、あの丸尾技士の手首であるかもしれないのだ。そんな風な、なさけない想《おも》いに胸をいためていた古谷局長の眼にさっきから灼《や》きついて離れない二号艇の底にころがっている一つの手首があった。その手首は、なにか口でもあるかのように、局長によびかけているようであった。
「はて――」
局長は、櫂《かい》を借りて、二号艇の血の海のなかから、気になるその手首をそっとすくいあげた。そしてそのまま手もとへひきよせたのである。
「うむ、やっぱりそうだった」
局長の眼が光った。彼は佐伯船長の方をむいて叫んだ。
「船長、これを見てください。この手首は、なにか手紙らしいものをしっかと握っています」
「おおそうか。こっちへよこせ」
船長は、局長と二人がかりで、その手首がつかんでいる手紙のようなものをひき離した。それはたしかに手紙だった。手帳を破ってそのうえに走《はし》り書《がき》にしたためたものであった。手首がとんでも、なおしっかり握りしめていたその手紙というのには、一体何が書いてあったろうか。
「おお、これは丸尾が書いたものだ」
船長が、びっくりしたようにいった。
「うむ、これはたいへんなことが書いてある。――“「幽霊船』ニチカヨルナ。ワレラハ”ちえっ残念! そのあとが破れていて分らない。次の行になって“ハ、人間ヨリモ恐ロシイ”で、またあとが切れている」
幽霊船に近よるな、吾等《われら》は……? 人間よりもおそろしい……? ――これが、丸尾技士の遺書だった。
「さあ、どういう意味だかよくわからないが、――」と船長はいって、「とにかく、幽霊船に近よるな、人間よりも恐ろしい奴がいるぞ、注意しろ――と、こういうわけなんだろう。丸尾は、われわれを助けようがために、こんな身体になるまで頑張ったんだ。なんて勇しい男だろう」
船長は、おもわず感嘆のこえを放ったが、それは他の二十三名の乗組員だれもの想いでもあった。
それはそれでいいとして、その次に、この二十四人の生残りの船員たちをひどく脅《おびや》かすものが残っていた。“人間よりも恐ろしい!”という文句が、一体なにをさしていっているかということであった。
幽霊船だから、人間より恐ろしい奴というのは、幽霊のことなのであろうか。いやいや、幽霊などというものはこの世にないと聞いている。第一幽霊が無電などをうつであろうか。だがこの奇怪きわまる光景をながめていると、おしまいにはこれを超人的な幽霊の仕業とでもしなければ、説明がつかなかった。
幽霊船現わる
無電技士丸尾の遺書は、あまりに簡単であったため、二号艇に乗組んでいた二十何名かの船員の最期《さいご》を語りつくしていたとはいえなかった。
だが、まったく遺書がない場合よりも、はるかによかった。すなわち「幽霊船」にしてやられたらしいこと、そこには「人間よりおそろしい」何者かがいるらしいことが、おぼろげながら分ったからである。
丸尾の遺書が知れわたると、一号艇の人たちは、破れかかった二号艇の中を、あらためて見なおした。それは惨状のうちにもなにかもっと彼等に役立つことが、ありはしないかとおもったからであった。
「おれは、だんぜんこの仇うちをしなければ腸《はら》が癒《い》えないんだ。幽霊船をみつけ次第、おれはそのうえに飛びのってやる。そして幽霊どもを、これでぶった斬《ぎ》ってやるんだ」
そういって、腰のジャック・ナイフを握りしめる船員もあった。
「おいおい、あれを見ろ。あのとおり、腕をひき裂《さ》きやがった。一度|斬《き》りつけただけでは足りないで、三筋《みすじ》も四筋も斬りつけてある」
「うん、まるでフォークをつきこんで、ひき裂いたようだなあ」
「ああ、猛獣の爪にひき裂かれたようではないか」
船長は、彼等の会話をきいて、ともに涙をのんだ。
二号艇には櫂《かい》がなかったが、一号艇にはぎっしり人がのっていたので、その一部が二号艇にのりうつることにした。
古谷局長と、貝谷という射撃のうまい船員と、そのほか六名の船員がのりこんだ。こうして二手にわかれて、また海を漂《ただよ》うことにした。
二号艇へのりこんだ古谷局長は、一同をさしずして、艇内の血を洗ったり、僚友の遺骸《いがい》の一部分を片づけたりした。そのうちに太陽はだんだん西の水平線に傾き、大空一杯に、豪快なる夕焼がひろがった。
「どうも、あの雲が気になるね」
などと、いっているうちに、入道雲がくずれだした。それは特別に灰色がかった大きい奴で、下の方が煙のようなものの中に隠れていた。
「おい、一雨《ひとあめ》やってくるぜ。いまぴかりと光ったよ」
「おう、入道雲の中で光ったね。うむ、風が出てきたぞ。これはまたやられるか」
なにしろ助けを呼ぶにも、どこにも一隻の船影さえ見えないのである。櫂を握るにもあてはなし、風浪のまにまに漂ってゆくより外に仕方がない身の上であった。そこへ一時的の雷雨にしろ、飢渇《きかつ》と疲労とに弱っているところを叩かれる身はつらいことであった。
そうこうしているうちに、海は白い波頭を見せて荒れてきた。ぽつり、ぽつりとおちてくる大粒の雨!
やがてあたりは真暗《まっくら》になり、盆《ぼん》をひっくりかえしたような豪雨となった。それに交《まじ》って、どろんどろんと地軸もさけんばかりに雷鳴はとどろく。
「おい離れるな」
「おう、舵《かじ》をとられるな」
二艘のボートは、たがいに必死のこえで叫びあう。どこが海だか空だか分らない。そのときだった。
「あっ、幽霊船が通る!」
「えっ、幽霊船!」
灰色の壁のような雨脚の中に、一隻の巨船が音もなく滑ってゆく。二三百メートルの近くであった。まさしく幽霊船だ!
逃がすな幽霊船
幽霊船にゆきあうのは、これで幾度目であろうか。たしか和島丸が撃沈せられて、一同が四艘のボートに乗じて海上へのがれたとき、この幽霊船がとおった。それからこれで二度目である。
はじめのときは、幽霊船に一発弾丸をおくってみただけで、そのままなにもしなかった。だが、きょうは幽霊船を別な目でみる!
なぜといって、行方不明《ゆくえふめい》になった丸尾無電技士の手首が発見され、その掌《て》の中に、ただごとではない手紙が握られていたのである。ことに“幽霊船に近よるな”とあるからには、この幽霊船は丸尾たち元の二号艇の乗組員に対して、なにかおそろしい危害を加えたものと思われる。一体彼等はどんなおそろしい目にあったのか。そして彼等は一体どこへいってしまったのか。――いや、いってしまったなどというよりも、彼等は一人のこらず殺されてしまったのだと書く方が正しいかもしれないのだ。いま雷雨のなかに突然現われた幽霊船!
「うぬ、幽霊船め、こんどは只じゃ通さないぞ。そうだ、そうだ。乗組員の敵だ。仇《かたき》うちをしなくちゃ、腹の虫がおさまらないや」
二艘のボートからは、乗組員たちが異口同音《いくどうおん》に、いましも傍にきた幽霊船に対して怒りの声をなげかけた。盆をくつがえすような雷雨も、山のような波浪も、それから幽霊船の恐ろしさも、彼等はすっかり忘れていた。それほど彼等にとって、幽霊船は憎《にく》い存在だったのである。
「船長、私をあの幽霊船へやってください。私は仲間が、どうして殺されたかをよく調べてくるつもりです。きっと秘密は、あの船の中にあるのです」
「わしもやってくだせえよ。船長さん。丸尾はいい青年で、わしに親切にしてくれた。ここでわしは丸尾のために仇をうたなくちゃ、生きながらえているのがつらい」
あっちからもこっちからも、船長のところへ幽霊船探
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