弾丸を空《むな》しくつかいはたして、なんの手応《てごた》えもなかった。
 幽霊船か、そうでないか。――たしかに鉄板の張ってある船らしいが、誰も出てこないとはどうしたわけだ。
 そのうちに、怪船は船足をはやめて、ボート隊から全く見えなくなってしまった。なんだか狐に鼻をつままれたようだ。
 船長は無言で考えにふける。洋上に風はだんだん吹きつける。
 四艘のボートの運命はどうなるのであろうか。


   風浪《ふうろう》あらし


 船腹が青白く光る無灯の怪汽船は、闇にまぎれてどこかへいってしまった。あとには、四隻の遭難ボートが、たがいに離れまいとして、闇の中に信号灯をふりながら洋上を漂《ただよ》ってゆく。風が次第に吹きつのってくる。ボートの揺れはだんだんと大きくなる。
 第一号艇には、佐伯船長がじっと考えこんでいた。
(一体どうしたというのであろう。難破船があるという無電によって、人命《じんめい》をすくうため現場までいってみれば、それらしい船影《せんえい》はなくて、[#「、」は底本では「。」]あの不吉な黒リボンの花輪が漂っていた。とたんに魚雷の攻撃をうけて、口惜しくも本船はたくさんの貨物とともに海底ふかく沈んでしまった。それからボートにのって洋上を漂っていると、そこへあの恐しい無灯の汽船だ。なぜ本船を沈めなければならなかったか。そして本船の敵は、一体なに者だろうか)
 どう考えてみても、そのわけが分らない。それは洋上で会った災難で、和島丸であろうと他の船であろうとどれでもよかったのだとすれば、なんという不運な出来ごとだろう。
 船長が、とつおいつ、覆面《ふくめん》の敵に対してこののちどうしようかと、思案《しあん》にくれていたとき、そばにいた古谷局長が、暗闇《くらやみ》の中から声をかけた。
「船長、風浪がはげしくなってきて、他のボートがだんだん離れてゆくようです。このままでは、ばらばらになるかもしれません」
「おおそうか」
 船長は、はっと顔をあげて、洋上を見まわした。なるほど、他のボートについている信号灯が、たいへん小さくなったようだ。そしてその灯火が上下へはげしく揺れている。
「うむ、これはますます荒れてくるぞ。針路を真東《まひがし》にとることは無理だ。無理にそれをやるとボートが沈没してしまうし、船員が疲れ切って大事をひきおこす危険がある。よし、古谷局長、風浪にさからわぬようにして夜明けをまつことにしよう。他のボートへ、それを知らせてくれ」
 船長の言葉に従って、古谷局長はすぐに信号灯をふって他のボートへ信号をおくった。
 その信号は、どうやらこうやら、他のボートへも通じたらしかった。
 それを合図のように、洋上をふきまくる風は一層はげしさを加えた。どーんと、すごい物音とともに、潮がざざーっと頭のうえから滝のように落ちてくる。
「おい、手の空《あ》いている者は、水をかい出せ。ぐずぐずしているとボートはひっくりかえるぞ」
 船長はぬかりなく命令をくだした。
 生か死か。ボートの乗組員は、いまや全身の力を傾けて風浪と闘うのであった。


   死んだような洋上


 乗組員の死闘は、夜明までつづいた。
 さすがの風浪も、乗組員のねばりづよさに敬意を表したものか、東の空が白むとともに、だんだんと勢いをよわめていった。そして夜が明けはなたれた頃には、風も浪《なみ》も、まるで嘘のように穏やかにおさまっていた。
「おう、助かったぞ」
 乗組員は、安心の色をうかべると、そのままごろりと横になった。俄《にわ》かに睡魔《すいま》がやってきた。みんな死んだようになって、睡眠をむさぼる。
 船長も、いつの間にか深い睡りにおちていた。が、彼は一時間もするとぱっと眼をさました。
「やっ、不覚にも睡ってしまった。こいつはいけない」
 船長は眼をこすりながら、艇内を見まわした。誰も彼も死人のような顔をしている。
 空は、うすぐもりだ。まだ天候回復とまではゆかない。だから油断は禁物である。
「そうだ。他のボートはどうしたろう」
 船長は、眼をぱちぱちさせながら、洋上をぐるっと見わたした。だが求めるボートの影は、どこにも見えなかった。
「おい、古谷君起きろ!」
 船長は、傍《そば》に仆《たお》れている無電局長の身体をゆすぶった。
 局長は、びっくりして跳《は》ね起《お》きた。
「おい、とうとう他のボートとはぐれてしまったらしい、それとも君には見えるかね」
「えっ、他のボートが見えないのですか。三隻《さんせき》とも見えませんか」
 局長はおどろいたらしい。船長が望遠鏡をわたすと、彼はそれを眼にあてて、水平線をいくども見まわした。
「どうだ、見えるか」
 局長は、それに対して返事もせず、その代りに望遠鏡を眼から放して、首を左右にふった。
「どこへいってしまったんだろうな」
 船長は、ため息をついた。
「さあ、助かるには助かって、どこかに漂流しているんだとはおもいますが……」
 局長はそういったが、しかしそれはなにも自信があっていったことではなかった。
 ボートは西へ西へと流れていた。どうやら潮流《ちょうりゅう》のうえにのっているらしい。
「おい古谷君、無電装置を持ってこなかったかね」
 と船長がきいた。
「はあ、持って来たことには来たんですけれど、駄目なんです。ゆうべ、ボートの中が水浸《みずびた》しになって、絶縁《ぜつえん》がすっかり駄目になりました。はなはだ残念です」
「ふうむ、そいつは惜しいことをした」
 船長は眼を洋上にむけた。
 そのうちどこからか、汽船が通りあわすかもしれない。だがそれは運次第であって、そんなものを期待していてはいけないのであった。確《かく》たる今後の方針をどうするか、それをきめて置かなければならない。
 そのころ、乗組員たちが、ぼつぼつ起きてきた。
「ああ夢だったか。俺はまだ風浪と闘っている気がしていたが……」
 風浪は凪《な》いだ。だが風浪よりもわるいものが、彼等を待っているのだ。
 それは飢《うえ》と渇《かつ》とであった。いや、飢より渇の方がはるかに恐ろしい。雲はだんだん薄くなって、熱い陽ざしがじりじりとボートのうえへさしてきた。この分では、飲料水の樽《たる》は、すぐからになるだろう。
「船長、漕《こ》がなくてもいいのですか」
「うむ、二三日はこのまま漂流をつづける覚悟でいこう。そのうちに、なにかいいことが向こうからやってくるだろう」
 船長は、たいへん呑気《のんき》そうな口をきいた。だが彼は、本当はひとり、心のうちでこまかいところまで考えていたのだ。こうなれば、部下の体力を無駄につかわないことが大切だった。できるだけ永く、部下を元気に保《たも》っておかなければならない。
「おーい、水を呑ませてくれ。咽喉《のど》が焼けつきそうだ」
 船員の一人が、くるしそうなこえをあげた。
「船長、水を呑ませていいですか」
「うん、水は一番大切なものだ。とにかく今朝は、小さいニュームのコップに一杯ずつ呑むことにしよう。あとは夕方まではいけない」
「えっ、あとは夕方までいけないのですか」


   漂流《ひょうりゅう》するボート


 たった一杯の水が、どのくらい遭難の船員たちを元気づけたかしれなかった。
 次に海水にびしょびしょに濡《ぬ》れた握り飯が一箇ずつ分配された。おはちを持ちこんであったので、握り飯にもありつけたのである。
「おい、そこにあるのは缶詰じゃないか」
「おおそうだ。俺は手近にあった缶詰を卓子掛《テーブルかけ》にくるんで持ちこんだのだった。こんな大事なものを、すっかり忘れていた」
 わずか十個に足りない缶詰だったけれど、遭難ボートにとっては、意外な御馳走であった。
「おい、三つばかり、すぐあけようじゃないか」
「待て、船長に伺《うかが》ってみよう」
 船長は、さっきから黙って、その方を見ていたので、部下にいわれるまえに口をひらいた。
「あけるのは、一個だけでたくさんだ。このうえ幾日かかって救助されるかわからないのだから、できるだけ食料を貯《たくわ》えておくのが勝ちだ。一個だけあけて、皆に廻すがいい」
「たった一個ですか。それじゃ、皆の口に一口ずつも入らない」
 船員は不平らしくいって、唾《つば》をのみこんだ。
 船長は、どうしても一個しか、缶詰をあけることをゆるさなかった。太平洋の遭難船で、半年以上も漂流していた例さえあるんだ。うまくいっても、一ヶ月や二ヶ月は漂流する覚悟でやらないと、計算がちがってくる。なにしろボートのうえには、二十四名の者が、ぎっしりのりこんでいるのだった。
「水だ、飯よりも水が呑みたい。船長、もう一杯水を呑ませてください」
「うん、いずれ呑ませてやる。もうすこし辛抱せい」
 船長は、子供にいいきかせるようにいった。だが、実のところ、太陽の直射熱はいよいよはげしくなって、誰の咽喉《のど》もからからにかわいてくるのだった。これでは、いくら水を呑んでも足りるはずがない。
「おーい、みんな。ボートのうえに日蔽《ひおお》いをつくるんだ。シャツでもズボンでもいいから、ぬいでもいいものを集めろ。そしてつぎあわせるんだ。そうすれば、咽喉の乾くのがとまる」
 船長は命令をくだした。
 部下は、それをきくと、元気になったように見えた。手持ぶさたのうえに、がっかりしていたところへ、ともかくも船長からやるべき仕事をあたえられたからであった。
 よせ布細工《きれざいく》の日蔽いは、だんだんと綴《つづ》られ、そして、大きくなっていった。
 やがてボートのうえに、この日蔽いは張られて、窮屈《きゅうくつ》ながら辛うじて全員の身体を灼《や》けつくような太陽から遮《さえぎ》ることができるようになった。
「もうすこし布《きれ》があれば帆が作れるんだがなあ」
「だめだよ、どっちへいっていいかわからないのに、帆を作ったって仕様《しよう》がないじゃないか」
 そんなことをいいあうのも、日蔽いのおかげで、船員たちが元気になった証拠であった。
 それは正午に近いころだった。
 貝谷という船内で一番元気な男が、とつぜん大声でわめいた。
「おい、ボートだ! あそこにボートが浮いている」
「えっ、ボートか」
「和島丸のボートだろうか。どこだ、どこに見える」
 貝谷は、小手をかざして、東の方を指さした。
 今までなぜ気がつかなかったと思うくらい、手近かなところに一隻《いっせき》のボートが、うかんでいた。
「おーい、和島丸のボート」
「おーい、一号艇はここにいるぞ」
 一号艇の乗組員たちは、こえをかぎりに喚《わめ》き、そしてせっかく張った日蔽いをはねのけながら手をふった。
「へんだな、応答をしないじゃないか。こっちの呼んでいるのに気がつかないのかしらん」
 そのとき、佐伯船長がいった。彼は望遠鏡を眼にあてていた。
「なるほど、これはおかしい。ボートのうえには櫂《かい》が見えない。櫂ばかりではない、人らしいものも見えないぞ。だが、あれはたしかに二号艇だ」
「えっ、二号艇ですか。本当に人影がないのですか。どうしたんでしょう」
「おかしいね」と船長はいって首をふった。
 そして望遠鏡を眼から外すと、一同をぐるっと見わたした。
「おい櫂をとれ。あの二号艇のところへ漕《こ》いでいってみよう」
 果して二号艇には誰もいなかったであろうか。
 そこには佐伯船長以下が予期しなかったような怪事が待ちうけているともしらず、一号艇はひさしぶりに擢をそろえて洋上を勇しく漕ぎだしたのであった。


   いたましき遺書


 二号艇は、波間にゆらゆら漂《ただよ》っている。
 そのうえに、人影はさらにない。櫂さえ見えないのだ。
 せっかく身ぢかに発見した僚艇《りょうてい》が、このような有様なので、一号艇上に指揮をとる佐伯船長以下二十三名の船員たちは、いいあわせたように不安な気持に顔をくもらせている。
「さあ漕げ、もうすこしだ。お一、二」
 船長は船員たちに力をつける。
 ボートは、海面を矢のように滑ってゆく。
 船長は、ボートのうえに望遠鏡をはなさない。その傍にいる無電局長の古谷
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