ぎ》ることができるようになった。
「もうすこし布《きれ》があれば帆が作れるんだがなあ」
「だめだよ、どっちへいっていいかわからないのに、帆を作ったって仕様《しよう》がないじゃないか」
 そんなことをいいあうのも、日蔽いのおかげで、船員たちが元気になった証拠であった。
 それは正午に近いころだった。
 貝谷という船内で一番元気な男が、とつぜん大声でわめいた。
「おい、ボートだ! あそこにボートが浮いている」
「えっ、ボートか」
「和島丸のボートだろうか。どこだ、どこに見える」
 貝谷は、小手をかざして、東の方を指さした。
 今までなぜ気がつかなかったと思うくらい、手近かなところに一隻《いっせき》のボートが、うかんでいた。
「おーい、和島丸のボート」
「おーい、一号艇はここにいるぞ」
 一号艇の乗組員たちは、こえをかぎりに喚《わめ》き、そしてせっかく張った日蔽いをはねのけながら手をふった。
「へんだな、応答をしないじゃないか。こっちの呼んでいるのに気がつかないのかしらん」
 そのとき、佐伯船長がいった。彼は望遠鏡を眼にあてていた。
「なるほど、これはおかしい。ボートのうえには櫂《かい》が見えない。櫂ばかりではない、人らしいものも見えないぞ。だが、あれはたしかに二号艇だ」
「えっ、二号艇ですか。本当に人影がないのですか。どうしたんでしょう」
「おかしいね」と船長はいって首をふった。
 そして望遠鏡を眼から外すと、一同をぐるっと見わたした。
「おい櫂をとれ。あの二号艇のところへ漕《こ》いでいってみよう」
 果して二号艇には誰もいなかったであろうか。
 そこには佐伯船長以下が予期しなかったような怪事が待ちうけているともしらず、一号艇はひさしぶりに擢をそろえて洋上を勇しく漕ぎだしたのであった。


   いたましき遺書


 二号艇は、波間にゆらゆら漂《ただよ》っている。
 そのうえに、人影はさらにない。櫂さえ見えないのだ。
 せっかく身ぢかに発見した僚艇《りょうてい》が、このような有様なので、一号艇上に指揮をとる佐伯船長以下二十三名の船員たちは、いいあわせたように不安な気持に顔をくもらせている。
「さあ漕げ、もうすこしだ。お一、二」
 船長は船員たちに力をつける。
 ボートは、海面を矢のように滑ってゆく。
 船長は、ボートのうえに望遠鏡をはなさない。その傍にいる無電局長の古谷が気がついたときは、望遠鏡を握る佐伯船長の腕が、なぜかぶるぶると慄《ふる》えていたのであった。
「船長、ボートの中になにが見えます?」
「うむ」
 佐伯船長は、望遠鏡を眼からひき離すように下ろして、ほっと溜息《ためいき》をついた。それはまるで悪夢からさめた人のようであった。船長は、なにかしらないが、ボートの中に思《おも》いがけないものを発見したらしいのである。
「船長、なにが見えましたか」
 局長にさいそくされて、船長は、いまはもう仕方がないとあきらめたように、
「おう、皆よく聞け。わしは望遠鏡をとって、あそこに漂流する二号艇ボートを仔細《しさい》に見たのだ。ところが、前にわしはボートのうえに櫂もなければ、人影もないといったが、いまよく見てみると、ボートの中は、全然空っぽではなかった」
 船長は、わざとまわりくどいいい方をしているようであった。
「で、なにが二号艇内に見えるのですか。船長、はやくいってください」
「血だ、血だ! 二号艇のなかは、血だらけなんだ」
「えっ!」
 船員たちはおどろきのあまり、思わず櫂の手をゆるめた。ボートは、ぐぐっと傾き、いまにもひっくりかえりそうになった。
「おう、しっかり漕げ、日本の船乗が、こんなことぐらいで腰をぬかしてどうするのか。さあ、はやく二号艇へ漕ぎよせろ」
 船長は、舷《ふなべり》をぴしゃぴしゃ叩いて、船員たちを叱りつけた。
 一号艇は、また矢のように海面を走りだした。漕ぎ手たちは、おどろきをおさえて、ひたむきに漕いだ。
「櫂やすめ」――船長の号令がかかった。
 漕ぎ手たちは、はじめて左右をふりかえった。二号艇は、もう手をのばせば触《ふ》れんばかりの近くにあった。彼等の眼は、電光のように早く、二号艇のうえにおちた。
「あっ。ひでえことになっていらあ」
「おお、これは一体どうしたというわけだろう?」
「あ、あんなところに千切《ちぎ》れた腕が」
 二号艇のなかのことを、どのように書きつづればいいであろうか。あまりの惨状《さんじょう》に、書きあらわす文字を知らない。
 とにかく艇内は、血しぶきで顔をそむけたいほどの惨状を呈《てい》していた。満足な身体をもった人間は、ただの一人も艇内に発見されなかったけれど、千切れた腕や脚や、そのほかたしかに人骨《じんこつ》と思われるものが血にまみれて、艇内におびただしくちらばっていた。
「なんとい
前へ 次へ
全17ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング