「えっ、この人を――この遺骸をお貸し下さるとは……」
 と、治明博士は、問いかえした。
「今、ロザレの霊魂《れいこん》は他出している。されば後、ロザレの遺骸に汝の子の隆夫のたましいを住まわせるがよい」
「あ、なるほど。すると、どうなりますか……」
「生きかえりたるロザレを伴い、汝は帰国するのだ。それから先のことは、汝の胸中《きょうちゅう》に自ら策がわいて来るであろう。とにかくわれは、汝ら三名の平安のために、今より呪文《じゅもん》を結ぶであろう。しばらく、それに控《ひか》えていよ」
「ははッ」
 治明博士は、アクチニオ四十五世の神秘《しんぴ》な声に威圧《いあつ》せられて、はッと、それにひれ伏《ふ》した。
 聖者は、不可解なことばでもって、ロザレの遺骸《いがい》に向って呪文《じゅもん》を唱えはじめた。呪文の意味はわからないが、治明博士は、自分の身体の関節《かんせつ》が、ふしぎにもぎしぎしときしむのに気がついた。
(汝ら三名の平安のために――と、聖者はいわれた。汝ら三名とは、いったい誰々のことであろう)と、治明博士は、ふと謎のことばを思い出していた。自分と、それから――そうだ、隆夫のことだ。隆夫は、どうしているであろうか。さっき城壁の上に聖者の姿を拝してから、自分の心は完全に聖者のことでいっぱいとなって、隆夫がついて来ているかどうかを確《たしか》めることを怠《おこた》っていた。隆夫はどうしているだろうか。――いやいや、万事は、聖者が心得ていて下さるのだ。尊《とうと》き呪文がなされているその最中に、他の事を思いわずらっては、聖者に対し無礼《ぶれい》となるのは分り切っている。慎《つつし》まねばならない。
 呪文の最後のことばが、高らかに聖者の口から唱えられ、そのために、この部屋全体が異様な響をたて、それに和して、何百人何千人とも知れない亡霊《ぼうれい》の祈りの声が聞えたように思った。治明博士は、気が遠くなった。
「これ、起きよ、目ざめよ。旅の用意は、すべてととのった。これ一畑治明《いちはたはるあき》。汝の供は、既に待っているぞ。早々《そうそう》、連れ立って、港へ行け」
 聖者の声は、澄みわたって響いた。治明博士ははっと気がついて、むくむくと起上ると、あたりを見まわした。
 そこは、はじめ登っていた域壁の上であった。夜は既に去り、東の空が白んでいた。そこに立っているのは治明博士ただひとり……いやもう一人の人物がいた。
「君は」
 と、治明博士は、横に立っていた褐色《かっしょく》の皮膚を持った痩《や》せた男へおどろきの目を向けた。どこかで見た顔ではあるが……。
「お父さん、ぼくですよ。隆夫ですよ。ぼくは、さっきから、このとおりロザレの肉体を貸してもらっているのです。これで元気になりましたから、早く戻ることにしようよ」
 と、そのミイラの如き人物は、博士に向ってなつかしげに話しかけたのであった。


   帰国《きこく》


 親子は、その後、バリ港を船で離れることができた。その船はノールウェイの汽船で、インドへ行くものだった。
 コロンボで、船を下りなくてはならなかった。そしてそこで、更に東へ向う便船を探しあてることが必要だった。親子は、慣《な》れない土地で、新しい苦労を重ねた。
 この二人を、ほんとの親子だと気のつく者はなかった。そうであろう、治明博士《はるあきはかせ》の方は誰が見でも中年の東洋人《とうようじん》であるのに対し、ロザレの肉体を借用している隆夫の方は、青い目玉がひどく落ちこみ、鼻は高くて山の背のように見え、その下にすぐ唇があって、やせひからびた近東人《きんとうじん》だ。頭巾《ずきん》の下からは、鳶色《とびいろ》の縮《ちぢ》れ毛がもじゃもじゃとはみ出している。パンツの下からはみ出ている脛《すね》の細いことといったら、今にもぽきんと折れそうだった。
 しかし結局、隆夫のおかげで、治明博士はインドシナへ向う貨物船に便乗《びんじょう》することができた。それはロザレの隆夫を聖者に仕立て、すこしもものをいわせないことにし――しゃべれば隆夫は日本語しか話せなかった――治明博士はその忠実《ちゅうじつ》なる下僕《しもべ》として仕えているように見せかけ、そのキラマン号の下級船員の信用を得て、乗船が出来たのであった。もっとも密航するのだから、親子は船艙《せんそう》の隅《すみ》っこに窮屈《きゅうくつ》な恰好をしていなければならなかった。
 キラマン号をハノイで下りた。
 それからフランスの飛行機に乗って上海《シャンハイ》へ飛んだ。そのとき親子は、小ざっぱりとした背広に身を包《つつ》んでいた。
 上海から或る島を経由《けいゆ》してひそかに九州の港についた。いよいよ日本へ帰りついたのである。バリ港を親子が離れてから八十二日目のことであった。
「よく
前へ 次へ
全24ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング