で、いい感じはしなかった。
入港がまだ終らないうちに、隆夫のたましいは汽船ゼリア号に訣別《けつべつ》をし、風のように海の上をとび越えて、海岸へ下りた。
不潔きわまる場所だった。見すぼらしい人たちが、蝿《はえ》の群のように倉庫の日なたの側に集っている。隆夫のたましいは、ぺッと唾《つば》をはきたいくらいだったが、それをがまんして、ともかくも彼らの様子をよく拝見するために、その方へ近づいていった。
一人の男が、ぼろを頭の上からまとって棕梠《しゅろ》の木にもたれて、ふところの奥の方をぼりぼりかいていた。隆夫のたましいは、その男の顔を見たとき、
「おやッ」
と思った。どこかで見た顔であった。
大奇遇《だいきぐう》
隆夫《たかお》のたましいは、そのあわれな人物の顔を、何回となく近よって、穴のあくほど見つめた、彼は、そのたびにわくわくした。
「どうしても、そうにちがいない。この人はぼくのお父さんにちがいない」
隆夫の父親である一畑治明博士《いちはたはるあきはかせ》は、永く欧洲に滞在して、研究をつづけていたが、今から四、五年前に消息をたち、生きているとも死んだとも分らなかった。が、多分あのはげしい戦禍《せんか》の渦の中にまきこまれて、爆死《ばくし》したのであろうと思われていた。その方面からの送還《そうかん》や引揚者の話を聞き歩いた結果、最後に博士を見た人のいうには、博士は突然スイスに姿をあらわし、一週間ばかり居たのち、危険だからスエーデンへ渡るとその人に語ったそうで、それから後、再び博士には会わなかったという。
では、スエーデンへうまく渡れたのであろうか。その方面を聞いてもらったが、そういう人物は入国していないし、陸路はもちろん、空路によってもスイスからスエーデンへ入ることは絶対にできない情勢にあったことが判明した。
そこで、博士はスイス脱出後、どこかで戦禍を受け、爆死でもしたのではなかろうかという推定が下されたのであった。
ところが今、隆夫のたましいを面くらわせたものは、イタリアのバリ港の海岸通の棕梠《しゅろ》の木にもたれている男の顔が、なんと彼の父親治明博士に非常によく似ていることであった。
「お父さん。お父さん。ぼく隆夫です」
と、隆夫のたましいは呼びかけた。くりかえし呼びかけた。
だが、相手は知らぬ顔をしていた。顔の筋一つ動かさなかった。
隆夫のたましいは失望した。
「すると、人ちがいなのだろうか」
すっかり悲観したが、なお、あきらめかねて隆夫のたましいは男の上をぐるぐるとびながら、彼のすることを見守っていた。
男は、木乃伊《ミイラ》のように動かなかった。棕梠の木に背中をもたせかけたままであった。ところが一時間ばかりした後、その男はすこし動いた。彼は座り直した。片坐禅《かたざぜん》のように、片足を手でもちあげて、もう一方の脚の上に組んだ。それから両手を軽く握り目をうすく開いて、姿勢を正した。彼はたしかに無念無想の境地《きょうち》にはいろうとしているのが分った。隆夫のたましいは、これはなにか変ったことが起るのではないかと思い、ふわふわとびまわりながら、いっそう相手に注意をはらっていた。
すると、その男の頭のてっぺんのすぐ上に、ぼーッとうす赤い光の輪が見えだした。ふしぎなことである。隆夫のたましいは、まわるのをやめて、それを注視《ちゅうし》した。
ふしぎなことは、つづいた。こんどは男の上半身の影が二重になったと見えたが、その一つが動き出して、ふわりと上に浮いた。それはシャボン玉を夕暗《ゆうやみ》の中にすかしてみたように、全体がすきとおり、そして輪廓《りんかく》だけがやっと見えるか見えないかのものであり、形は海坊主《うみぼうず》のように、丸味をおびて凸凹《でこぼこ》した頭部《とうぶ》とおぼしきものと、両肩に相当する部分があり、それから下はだらりとして長く裾《すそ》をひいていた。また、頭部には二つ並んだ目のようなものがあって、それが別々になって、よく動いた。しかしその目のようなものは、卵をたてに立てたような形をし、そしてねずみ色だった。
「おお、隆夫か。どうしたんだ、お前は」
と、そのあやしい海坊主はいって、隆夫のたましいの方へ、ゆらゆらと寄ってきた。
「あ、やっぱり、お父さんでしたか」
隆夫のたましいは、海坊主みたいなものが、父親治明博士のたましいであることに気がついた。
ああ、なんというふしぎなめぐりあいであろう。祖国を遠くはなれたこのアドリア海の小さい港町で、父と子が、こんな霊的《れいてき》なめぐりあいをするとは、これが宿命《しゅくめい》の一頁で、すでにきまっていたこととはいえ、奇遇中《きぐうちゅう》の奇遇といわなくてはなるまい。
「お父さん。よく生きていて下さいました。親類でもお父さ
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