するが承知かネ」
「マッチが日本官憲の手に渡るというのか。そんな莫迦《ばか》なことがあってたまるか。残りのマッチ函は『赤毛のゴリラ』の働きで取りかえしてあることは知っているではないか」
「そうでない。川村秋子の胃液に交っているのを分析すれば分る」
「そんな事なら心配いらない。胃酸に逢えば化学変化を起して分らなくなる。はッはッ」
「まだ有る。安心するのは早いぞ。――実は僕があのマッチ函から数本失敬して某所《ぼうしょ》に秘蔵している。僕がここ数日間帰らないと、先刻《さっき》云ったようにそのマッチと僕の意見書とが、陸軍大臣のところへ提出されることになる。そうなれば後はどんなことになるか君にも容易に想像がつくだろう」
「ウーム、貴様という貴様は……」
と、首領は全身をブルブル震わし、銃口をグイグイと帆村の肋骨《あばらぼね》に摺《す》りつけたが、引金を引くと一大事となるので、歯をギリギリ云わせて射撃したいのを怺《こら》えた。
「さあ、撃つなら撃つがいい……どうして撃たないのだ」
「ウム――」
と相手は気を呑まれて一歩退いた。――と、エイッという気合が掛かって首領の身体は風車のようにクルリと大きく一回転すると、イヤというほど床の上に叩きつけられた。敵がひるんだと見るやその直後の一瞬時《いっしゅんじ》を掴んだ帆村の早業の投げだった。――死にもの狂いの相手はガバと跳ね起きてピストルの引金を引こうとするのを、
「この野郎!」
と飛びこんだ帆村がサッと足を払って、また転がるところを隙《す》かさず逆手を取って上からドンと抑えつけた。
「さあ、どうだ」
主客はハッキリと転倒してしまった。――帆村が云い含めてあったのか、この騒ぎのうちに、彼に救われた「赤毛のゴリラ」はサッと部屋から飛び出していった。
「右足のない梟君!」と帆村は逆手をとったまま首領に云った。「君の覆面は武士の情で、その儘《まま》にして置いてあげよう。――さあ、これから君にちと[#「ちと」に傍点]働いて貰わねばならぬが、それはこの巣窟《そうくつ》の案内だ。ここにはいろいろな怪しい仕掛があるようだ。第一に気になるのは君が先刻《さっき》まで掛けていた椅子についている梟の彫刻だ」
といって帆村は首領の座席だった椅子を指《ゆびさ》した。
「怪しいと思うのは、あの梟の眼だ。あれは押し釦《ぼたん》になっているに違いない。君を傍へ連れてゆくから、ちょっと圧《お》してみてくれないか」
と帆村は首領を椅子のところへ連れてゆき、
「さあ、まず右の眼を圧してみてくれ給え」
「いやだ。乃公《おれ》は圧さない」
「圧さなければ、貴様こそ地獄へゆかせてやるぞ。この短刀の切れ味を知らせてやろう」
「待て。では圧そう」
「どうせ圧すなら、早くすればいいのに……」
全く主客は逆になった。――首領は渋々指をさしのべて、釦をギュッと圧した。その途端にジージーガチャリガチャリと機械の動き出す音が聞えだした、と思うと正面の鉄壁が真中から二つに割れ、静かに静かに左右へ開いていった。そしてその後から何ということだろう、竪横《たてよこ》五メートルほどの大壁画が現れたがそれは毒々しい極彩色の密画で、画面には百花というか千花というか凡《およ》そありとあらゆる美しい花がべた[#「べた」に傍点]一面に描き散らしてあった。
万花画譜《ばんかがふ》! 密偵の巣窟に、この似つかわしからぬ図柄は一体どんな秘密を蔵《かく》しているのであろうか。
呪いの極東
灰色の敵の巣窟に、これは又あまりにも似つかぬ極彩色の大図譜!
英才をもって聞えた帆村探偵も、この花鳥絢爛《かちょうけんらん》と入り乱れた一大図譜をどう解釈してよいやら、皆目見当がつかず呆然としてその前に立ち尽すばかりだった。――この壁掛図が、部屋飾りのために掛けてあるのでもなく、また偶然そこにあったというのでもないことは極めて明瞭だった。すると、
(――この大図譜こそは、×国間諜団の使命に密接な関係のあるものでなければならぬ!)
帆村はそれを確信した。
では、その図譜の持つ謎をどこに発見したものだろう。彼はいままでに、いろいろと複雑な暗号にぶつかったが、こんな種類のは始めてだった。尚《なお》身近くには油断のならない敵手「右足のない梟《ふくろう》」がいて、ピストルに隙さえ見出せるならあべこべに彼の生命を脅かす位置に取代ろうと覘《ねら》っている。しかもこの場所というのが、敵にとって便利この上もない巣窟にちがいない。この上どんな殺人的仕掛があるやら分らないし、またいつ危急を聞きつけて、決死的な新手の団員が殺到してくるか分らない。それを思うと、長居は頗《すこぶ》る危険だった。
それにも拘《かかわ》らず、折角《せっかく》目の前に望みながら、どうにも手のつけようのない謎の大図譜! 流石《さすが》の帆村探偵も、火葬炉の中に入れられたように、全身がジリジリと灼熱してくるのを覚えたのであった。
「さあ、――」と帆村は首領の背中を銃口で押して威嚇《いかく》した。「この図譜が出て来たからには、もう観念してよいだろう。こいつの実行期は何日《いつ》だ、それを云ってみたまえ」
帆村は、さも計画を熟知しているような顔をして、この機密に攀《よ》じのぼるための何かの足掛りを得たいつもりだった。
「はッはッはッ」と「右足のない梟」は太々《ふてぶて》しく笑って、「儂《わし》に聞くことはないでしょう。御覧のとおりですから、勝手にお読みになったがいいでしょう」
読めというのか。ではこの図譜の上に、すべてのことが書かれているのだ。――だが読めといっても、この花鳥乱れるの図を何と読んでいいのだろう。
「フフフフ、どうです。お分りかナ。――」
と首領は悪意を笑声に盛って投げつけた。それを聞くと帆村はもう耐えられなくなった。
「――分らなくて、どうするものか!」
と彼は叫んだ。自暴的な自殺的な言葉を吐くのが、彼のよくない病癖だったが、それを喚き散らすと、いつの場合も反射的に天来の霊感が浮んでくるのであった。今の場合もそうだった。
そうだもう一つの押釦《おしぼたん》があった。
その押釦を押しさえすればいいのだ。心配は押してみてから後でもよい!
帆村はつと[#「つと」に傍点]手を伸べて、首領席についているもう一つの押釦をグイと押した。すると、果然その反応は起った。
図譜に向いあった壁面に、一つの穴のようなものがポカリと明くと、その中からサッと赤色の光線が迸《ほとばし》ると見るより早く、かの大図譜の上に投げ掛った。
と。――
なんという不思議! 大図譜の上に乱れ飛んでいた花鳥がサッと姿を消して、その代りに図譜の上には大きな地図が現れた。地図! 地図! 青色の大地図だった。そして意外にも極東の大地図だった。日本を中心として、右には米大陸の西岸が見え、上には北氷洋が、西には印度《インド》の全体が、そして下には遥かに濠洲《ごうしゅう》が見えている。その地図の上には、ところどころに太い青線で妙な標《しるし》がついていた。――ああ矢張り密偵団の陰謀は、この大地図の上に印せられてあったのだ! 帆村の興奮は、その極に達した。
が、そこに恐ろしい危機があった。帆村の警戒の目がちょっと留守になったのだ。
ガチャーン――と、烈しい物音!
ガラガラと硝子《ガラス》の壊れ落ちる響がしたと思うと、途端に赤い光線がサッと滅した。そして面妖にも、青色の極東を中心とする大地図が消え失せて、あとには始めにみた花鳥の図が、何事もなかったように壁間に掛っていた。――
「やったナ」
と首領の方に気をくばる。――
もう遅かった。ガーンと帆村の頤《あご》を強襲した猛烈な打撃! 彼はウンと一声呻るとともに、意識を失ってしまった。
樽《たる》のある部屋
それから、どのくらい時間が経ったのか分らなかったが、兎《と》に角《かく》帆村探偵は頸筋のあたりにヒヤリと冷いものを感じて、ハッと気がついた。
(おや、自分は何をしていたんだろう?)
そのような疑惑が、すぐ頭の上にのぼってきた。
目を明いてみたが、なんだか薄暗くて、よくは分らない。
(一体ここは何処《どこ》だろう?)
と、不思議に思って、立ち上ろうとしたが途端にイヤというほど脳天をうちつけ、ズキンと頭部に割れるような痛みを感じた。
ガラガラガラ!
続いて、何か板のようなものが、床の上に落ちるような音がしたので、ハッとして飛びのこうと身を引く拍子に、
「呀《あ》ッ!」
と声をたてる遑《すき》もなく、
ガラガラガラ!
と、足が引懸《ひっかか》ったまま、その場に身体は横倒しになってしまった。そして顔の真正面から、なにか土か灰かのようなものをパーッと浴びてしまった。
プップッと、唾《つば》を吐きつつ彼は漸《ようや》く立ち上った。そして薄暗がりの中ながら、彼は大きなセメント樽のようなものの中に入っていたことが分ってきたのである。
よく目を見定めると、そのセメント樽のようなものが、その外いくつも並んでいた。まるで工場の倉庫みたいな感じである。倉庫ではないが、而《しか》も異様の臭気が室内に充満していて、それがプーンと鼻をついたが、丁度《ちょうど》塩鮭《しおざけ》の俵が腐敗を始めているような臭いだった。ここは倉庫かなとは、そのとき既に思ったことだったが確かに先刻《さっき》までいたあの大広間ではない。誰がこんなところへ連れてきたのか。
「うん、そうだ。こいつは『右足のない梟《ふくろう》』の仕業に違いない。ここは地下室の底だな。それにしても……」
と、帆村は手近の一つの樽の方へ近づいて、彼が、さっき落したと同じ蓋《ふた》を手で取払って内部を覗《のぞ》きこんだ。
「呀ッ、これは……」
帆村探偵は、内部を覗くと同時に思わず弾かれるように身を引いた。その樽の中には室内の異臭を作っている原因の一つがあったからである。
それは又、危く彼が陥りかけた恐ろしい運命を物語るものでもあった。実に樽の中には、何者とも知れぬ一個の屍体《したい》が入っていたのである。いや一個だけではない、探してみると都合四個の屍体を発見することが出来た。ああ、すると此の部屋は屍体置場にひとしいのであった。
彼は覚醒《かくせい》したことの幸運を感謝した。もうすこしで、彼自身でもって屍体を、もう一個|殖《ふ》やすところだったのである。まあよかったと思ったものの、その後で、すぐ大きな不安が押しかけて来た。
(この部屋には出口が明いているだろうか?)
という心配だった。
帆村は樽の傍を離れて、三十坪あまりもある其《そ》の室内をグルグルと廻りあるき、出口と思うところを尋ねて歩いたその結果、彼の探しあてたものは頑丈なコンクリートの壁ばかりだった。出口は有る筈なのであるが、隠されて見えなかったし、もし見つかってもこれは押したぐらいでは明かないことがハッキリした。彼はすっかりこの屍室に閉じこめられてしまったことに漸く気がついた。
「生き埋めか? そいつはたまらん!」
と帆村は独言《ひとりごと》を呟《つぶや》いたが、彼はそれほど慌《あわ》てているわけではなかった。彼はこの屍室にはもっと汚穢《おあい》した空気が溜っていなければならぬのに、それほどではないのを不審に思った。すると――どこかに空気抜けが明いているに違いない。彼は薄暗い天井に眼を据え、綿密に観察していった。果然――
「ああ、あそこに空気抜きがある!」
彼はとうとう部屋の一|隅《ぐう》に求めるものを発見した。どうやら身体が抜けられるらしい。それが分ると、彼は急いで樽の明いているのを集めた。そしてそれを城のように積み重ねていった。遂にそれは天井に達した。彼は雀躍《こおどり》せんばかりに喜んで、その空気の抜ける孔の中に匍《は》いこんだ。
孔の中は冷《ひ》え冷《び》えとしていた。そして彼の元気を盛りかえらせるような清浄な空気の流れがあった。彼は思わず深呼吸をくりかえしたが、それが済むと、ソロリソロリと真暗な孔の中を匍い始めるのだった。
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