送ったというのだな」
「そうです。私は確信しています。だから日本人の手に、あのマッチ一本だに渡っていないのです。ですから本員の除名は許していただきたいと思います」
「イヤ宣告に容喙《ようかい》することは許さぬ。――とにかくマッチが日本人の手に残らなかったのは何よりである。それがもし調べられたりすると、われわれが重大使命を果《はた》す上に一頓挫《いちとんざ》を来たすことになる。不幸中の幸だったといわなければならん。――では『赤毛のゴリラ』に宣告を与える。一同起立――」
 十数名の黒衣の人物は一せいに起立した。「赤毛のゴリラ」の顔は見る見る土のように色褪《いろあ》せていった。ああ生命は風前の灯《ともしび》である。
「宣告、――君は『狐の巣』の監督を怠《おこた》り、重大なる材料を流出させたる失敗を贖《あがな》うことを命ずる。忠勇なる『赤毛のゴリラ』よ。地下に瞑《めい》……」瞑せよ――と云いかけたその刹那《せつな》の出来ごとだったが、突然どこからともなく一匹の鼠《ねずみ》が現れて、チョロチョロと首領の方へ走りだした。
「オヤッ――」
 と叫んだ途端に、「赤毛のゴリラ」の懐《ふところ》からポケット猿がパッと飛出して、鼠の後を追いかけた。首領はハッと身を避けて、この小動物の追駆けごっこを見送った。他の黒装束の連中も思わず、ゾロゾロと前へ踏みだした。そのとき「赤毛のゴリラ」の影のように寄り添った黒装束の一人が素早く何か囁《ささや》いてソッと手渡したものがあった。――猿は室《へや》の隅でとうとう鼠を噛み殺してしまった。一座は元のように整列した。「右足のない梟」は、そこで再び厳かな口調で叫んだ。――
「――『赤毛のゴリラ』よ、地下に瞑せよ」
 ズドン。――と銃声一発。首領の手には煙の静かに出るピストルが握られている。
 だだだだッと、「赤毛のゴリラ」は銃丸のために後に吹きとばされドターンと仰向《あおむ》けに斃《たお》れてしまった。そして石のように動かなくなった。
「これで第二号礼式を終った」と首領は恐ろしい礼式の終了を報じたが、このとき何を思ったものか、一座をキッと睨んで声を励《はげ》まして叫んだ。「――R団則の第十三条によって本員を除く他の臨席団員の覆面を脱ぐことを命ずるッ」
 覆面を脱ぐ第十三条――それは極《きわ》めて重大な命令だった。覆面を脱げば、たいてい死刑か本国送還の何《いず》れかである。それは実に重大なる事態の発生を意味する。
 サッ――と、一同は我を争って覆面を脱いだ。現れ出でたる思いがけないその素顔!
「何者だ、覆面をとらない奴は?」
 なるほど一番遠い端にいる会員の一人はただ独り覆面をとろうとしない。それは「赤毛のゴリラ」に何か手渡した男だった。首領はピタリとその団員の胸にピストルを擬《ぎ》した。
 覆面を取らぬ団員の生命は風前の灯にひとしかった。あわや第三の犠牲となって床の上を鮮血《せんけつ》に汚《よご》すかと思われたその刹那!
「うむ――」
 と一声――かの団員の気合がかかると同時に、その右手がサッと宙にあがると見るやなにか黒い塊がピューッと唸《うな》りを生じて、首領「右足のない梟」の面上目懸けて飛んでいった。
「呀《あ》ッ――」
 と叫んだのが先だったか、ドーンというピストル[#「ピストル」は底本では「ピルトル」]の音が先だったか、とにかく首領は素早く背を沈めた。
 と、それを飛び越えるようにして円弧を描いていった黒塊は、行手にある頑丈な壁にぶつかって、
 ガガーン!
 と一大爆音をあげ、真白な煙がまるで数千の糸を四方八方にまきちらしたように拡がった。
「曲者《くせもの》! 偽団員だ!」
「遁《に》がすな、殺してしまえ!」
 覆面のない十数名の団員はてんでに喚《わめ》きながら、怪しき黒影の上に殺到していったが、あらあら不思議、どうした訳か分らないが、彼等は拳《こぶし》を勢いよくふりあげたのはよいが云いあわせたように、よろよろと蹣跚《よろめ》き、まるで骨を抜きとられたかのように、ドッと床の上に崩折れてしまった。途端《とたん》に鼻粘膜《びねんまく》に異様な鋭い臭気を感じたのだった。毒瓦斯《どくガス》!――もう遅い。
「ざまを見ろ!」と覆面を取らぬ怪人は、ふくんだような声で叫んだが、
「あッ、こいつは失敗《しま》った」といって飛び出していった。そこにたしかに首領が立っていたと思ったのに、何処《どこ》へ行ったか、首領の姿がなかった。床の上には丸い鉄扉《てっぴ》が儼然《げんぜん》と閉じていて、蹴っても踏みつけても開こうとはしない。
「ちぇッ――逃がしたかッ」
 流石《さすが》は首領であった。咄嗟《とっさ》の場合に、その場を脱れたものらしかった。
「この上は『赤毛のゴリラ』を頼むより外はない」
 彼はスルスルと横に匍《は》って、奥の壁際に倒れている第二の犠牲者のところへ近づいた。
「オイッ、しっかりしろ!」
「赤毛のゴリラ」の上衣《うわぎ》を開くと、彼の胸には先刻《さっき》怪人からソッと渡された簡易防弾胸当《かんいぼうだんむねあて》が当っていた。しかし弾丸《たま》は運わるく胸当の端を掠《かす》めて、頤の骨にぶつかったらしく、頸のあたりを鮮血が赤く染めていた。その衝動が激しかったのか、彼は気絶していた。しかし心臓の鼓動は指先にハッキリ感ぜられた。
「このままでは、息を吹きかえすと同時に昏睡《こんすい》してしまうぞ。危い危い」
 そういって怪人は黒衣の下からマスクのようなものを出し、ゴリラの顔面に被せてやった。そしてそれが済むと、ドンドンと背中を打って、
「おい、目を覚せ、目を覚すんだ!」
 と叫んだ。
 激しい刺戟《しげき》に「赤毛のゴリラ」はやっと気がついたか、ウーンと呻《うな》り始めた。
「オイ『赤毛』君。――しっかりするんだ。愚図愚図《ぐずぐず》していると、俺達は死んでしまうぞ」
 怪人は気が気ではなかった。隠し持ちたる毒瓦斯を放ったのはよいが、首領を逸してしまっては危険この上もない。首領は何時彼の背後に迫ってくるか知れないのだ。
「ウーン。キ、君は誰だ!」
 と赤毛は細い声で呻るように云った。
「誰でもいい。君に防弾衣を恵んだ男だ。――それよりも危険が迫っている。この部屋から早く逃げ出さねば、生命が危い。さあ、云いたまえ。どこから逃げられるのだ」
「あッ。――貴方《あなた》は団員ではないのだネ。イヤ、そんなことはどうでもよい。僕はもう死んでいる筈《はず》だったのだ。逃げよう、逃げよう。貴方と逃げよう。さあ、そこの床にあるスペードの印のあるところを押すんだ。早く、早く」
「なにスペードの印! アッ、これだナ」
 と怪人が喜びの声をあげたとき、不意に天井の方から破《わ》れ鐘《がね》のような声が鳴り響いた。
「帆村探偵君、なにか遺言はないかネ」


   首領対帆村


 ――遺言はないか?
 と天井裏から叫んだ者は、紛れもなく密室から逃げ去った首領にちがいなかった。その首領は(帆村探偵君!)と呼んだが、一体あの青年探偵帆村はどこにいるというのだ。此処《ここ》は×国|間諜団《かんちょうだん》の巣窟《そうくつ》ではないか。累々《るいるい》と横《よこた》わるのは、みな×国の間諜たちだった。もっとも一人だけ覆面を取らぬ団員があったが……。
「――君の勝だ! 好きなようにしたまえ」
 と、突然叫んだのは、覆面を取らぬ彼の団員だった。彼はスックと立ち上るなり、両手を頭上にあげて、敵意のないのを示した。
「はッはッはッ」と天井裏の声は憎々《にくにく》しげな声で笑った。「日本の探偵さんは、案外もろいですネ。……さァ、動くと生命《いのち》がないぞ。じッとしているんだ」
 いよいよ首領は、この部屋に出て来る気勢をみせた。それを知ると「赤毛のゴリラ」は色を失ってしまった。首領が出て来れば、赤毛の生きていることが分り、一発のもとに斃《たお》されるに決っている。いや既《すで》に首領は赤毛が帆村から恵まれた簡易防弾衣で生命を助かったことを知っているかも知れない。彼としては団員として働いていた間は死を覚悟していた。しかしもう彼は団員でもない。それどころか既に銃殺されて黄泉《こうせん》の客となっていた筈《はず》である。死線を越えて――彼の場合は、死ぬのが恐ろしくなった。
「どうか、私を助けて下さい――」
 赤毛はワナワナ慄《ふる》えながら帆村の腰に獅噛《しが》みついた。
 室内にはシューシューと可《か》なり耳に立つ音がしている。それは毒瓦斯《どくガス》をしきりに排気している送風機の音だった。排気が済まないと、首領は出て来られないのだと、帆村は早くも悟った。
 そこで彼は低い声で、何事かを早口に喋《しゃべ》った。それを聞くと赤毛は肯《うなず》いた。そしてゴロンとその場に倒れてしまった。
 やがて送風機の音が止った。そして正面の鉄扉が弾かれたようにパッと開くと、まるで開帳された厨子《ずし》の中の仏さまのように、覆面の首領が突っ立っていた。その手にはコルトらしいピストルを握って……。
「さあ帆村君。動きたければ動いてみたまえ。ナニ動きたくないって。そうだろう。直《す》ぐピストルの弾丸《たま》を御馳走するからネ。――さて、それよりも君に至急聞きたいことがあるのだから、答えて呉れたまえ」
 といって首領はジリジリと帆村の方に近づいて来た。覆面対覆面――それは首領対帆村の呼吸《いき》づまるような一大光景だった。
「帆村君」と首領はなおも油断なくピストルの口金を帆村の胸にピタリと当てて「君は銀座事件でマッチ函を怪しいと睨んでいるそうだが、一体あのマッチ函のどこが怪しいというのかネ」
「……」帆村は暫《しばら》く黙っていたが「函は普通のマッチ函ですこしも怪しくはない。怪しいのはマッチの棒だ」
「マッチの棒? それがなぜ怪しい」
「函の中に半分くらいしか残っていなかった。その癖、擦った痕が一つもない……」
「そんなことは分っている。それ以上のことを云いたまえ」
「だから云ってるではないか。残りの半分のマッチの棒は、あの銀座の鋪道に斃れた川村秋子《かわむらあきこ》という懐姙《みもち》婦人が喰べてしまったのだ」
「ナニ、あの女が喰べた?……」
「そうだ」と帆村は首領の駭《おどろ》くのを尻目《しりめ》にかけて喋りつづけた。「喰べたから、擦り痕がついていないのだ。喰べても大して不思議ではない。姙婦というものは、生理状態から変なものを喰べたがるものだ。この場合の彼女は、胎児の骨骼《こっかく》を作るために燐が不足していたので、いつもマッチの頭を喰べていたのだ。あの日も何気なしに、あのマッチ函を君の一味から買ったのだ、そこは店の表から見ると、何の変哲もない煙草店だった、だからそんな恐ろしいマッチともしらず、君の仲間が間違えたまま一函買いとってそしてガリガリ噛みながら、銀座へ出てきた。ところが……」
「ところが――どうしたというのだ」
「ところが、そのマッチは特別に作ったもので、燐の外に、喰べるといけない劇薬が混和されていたのだ。イヤ喰べるとは予期されなかったので劇薬が入っていたのだといった方がよいだろう。その成分というのは……」
「うん。その成分というのは――」


   怪《あや》しき図譜《ずふ》


「さあ、早く云わぬか。――そのマッチの成分というのは何だったと云うのだ!」
 と、首領「右足のない梟《ふくろう》」はせきこむように詰問した。
「極秘のマッチの成分なら、君がたの方がよく知っているじゃないか」
 と、帆村は肝腎のところで相手の激しい詰問に対し、軽く肩すかしを喰わせた。
「嘲弄《ちょうろう》する気かネ。では已《や》むを得ん。さあ天帝に祈りをあげろ」
「あッ、ちょっと待て!」
「待てというのか。じゃ素直に云え」
「云う、といったのではない、それよりも――君のために忠告して置きたいことがあるからだ」と帆村は騒ぐ気色もなく「僕を殺すのは自由だが、すると例のマッチがわが官憲の手に渡り、添えてある僕の意見書によって綿密な分析が行われ、結局君たちの計画が大頓挫《だいとんざ》を
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