。帆村は別に驚いた顔もしていなかった。
「やっぱり、そうでしたか」
「そうだったとは……。君は何か心当りがあるのかネ」
「イヤさっき向うの飾窓《ショウインドウ》のところに、一人の身体《からだ》の大きな上品な紳士が、一匹のポケット猿を抱いて立ってみていましたがネ。そのうちにどうした機勢《はずみ》かそのポケット猿がヒラリと下に飛び下りて逃げだしたんです。そしてそこにある婦人の屍体の上をチョロチョロと渡ってゆくので警官が驚いて追払《おいはら》おうとすると、そこへ紳士が飛び出していって素早く捕えて鄭重《ていちょう》に詫言《わびごと》をいって猿を連れてゆきました。その紳士が曲者《くせもの》だったんですね」
「ナニ曲者だった?」課長は噛《か》みつくように叫んだ。
「そんならそうと、何故《なぜ》君は云わないんだ。そいつが掏摸《スリ》の名人かなんかで、猿を抱きあげるとみせて、手提《バッグ》から問題の燐寸を掏《す》っていったに違いない――」
「でも大江山さん、沢山《たくさん》の貴方の部下が警戒していなさるのですものネ。私が申したんじゃお気に障《さわ》ることは分っていますからネ」
 大江山は、昔から彼の部下が帆村を目の敵にして怒鳴りつけたことを思い出して、ちょっと顔を赧《あか》くした。
「とにかく怪しい奴を逃がしてしまっては何にもならんじゃないか。気をつけてくれなきゃあ、――」
「ああ、その怪紳士の行方《ゆくえ》なら分りますよ」
「なんだって?」と大江山は唖然《あぜん》として、帆村の顔を穴の明くほど見詰めた。そして、やがて、
「どうも君は意地が悪い。その方を早くいって呉れなくちゃ困るね。一体どこへ逃げたんだネ」
「さあ、私はまだ知らないんですが、間もなくハッキリ分りますよ」
「え、え、え、え?――」
 流石の大江山課長も今度は朱盆《しゅぼん》のように真赤になって、声もなく、ただ苦し気に喘《あえ》ぐばかりだった。


   奇怪なる発狂者


「帆村君、君は本官《ぼく》を揶揄《からか》うつもりか。そこにじっと立っていて、なぜ、あの怪紳士の行方が分るというのだ」
 大江山捜査課長は真剣に色をなして、帆村に詰めよった。さあ一大事……。
「冗談じゃない、本当なのですよ、大江山さん」と、帆村は彼の癖で長くもない頤《あご》の先を指で摘《つ》まみながらいった。「これは雁金検事さんにも聞いていただきたいのですけれど、実は今群衆の中に、私の助手である須永《すなが》が交って立っていたのです。そこへ怪紳士があの早業《はやわざ》をやったものですから、すぐさま須永に暗号通信を送って怪紳士を追跡しろと命じたのです。彼はすぐ承知をして、列を離れました。間もなく知らせてくるから、一切《いっさい》が分りますよ」
「なんだ、そうだったのか」と雁金検事は横から笑いかけながら、「しかし暗号通信というのは、どんなものかね」
「そいつは私たちの間だけに通用する指先の運動ですよ。こんな風に、頤の下で動かすんです」
 と帆村は五本の指を器用に動かして、
「いま動かしたのが、(屍体を早く解剖にした方がよろしい)という文句を暗号に綴《つづ》ったんです」
「ふふん。中々口の減らない男だな」と検事は苦《に》が笑《わら》いをして、「大江山君、その婦人の屍体を早く法医学教室へ送って解剖に附してくれ給え。ことに胃の内容物を検査して貰うんだよ。いいかね」
「承知しました」
 と、大江山課長は帆村にやりこめられたのを我慢してそれを部下に命令を下した。そこで婦人の屍体はすぐ真白な担架《たんか》の上に移され、鋪道の傍《かたわら》に待っていた寝台自動車にのせて、送りだされた。物見高い群衆は、追い払えど、なかなか減る様子もない。
「帆村君」と大江山課長が近づいて「怪紳士の行方が分るのは幾時《いつ》ごろかね。十日も二十日も懸《かか》るのなら、こんなとこに立っていては風邪を引くからね」
「イヤ課長さん。そうは懸らないつもりですよ。まず早ければ三十分、遅くても今夜一杯でしょう」
「そんなに懸るのかネ。では一応本庁に引上げて、君にビールでも出そうと思うよ」
 そういうと、大江山は検事と相談して、検察隊一行の引揚げを命じたのだった。
 警視庁へ引上げた一行は、とうとう夕飯が出るようになっても、帆村の助手の報告を聞くことが出来なかった。それに引き替え、大学の法医学教室からは、婦人の死因について第一報が入って来た。
「婦人ノ推定年齢ハ二十二歳、目下《モッカ》姙娠四箇月ナリ、死因ハ未《イマ》ダ詳《ツマビラ》カナラザレド中毒死ト認ム」
 この報告は捜査本部の話題となった。
「姙娠四箇月とは気がつかなんだねえ」
「中毒死とすると、誰に薬を呑《の》まされたんだろう」
「自殺じゃないかネ」
「それは違う。帆村探偵も云っていたが、自殺とは認められん」
「須永という男は名前のように気が永いと見える。早く帰って来んかなァ。もう七時だぜ」
 しかしその七時が八時になっても愚《おろ》か、十二時を打っても須永は帰って来なかった。
 須永に限り、こんなに遅くなることはない。遅くなりそうだったら、途中から電話か使いかを寄越《よこ》す筈《はず》だった。それが何も云って寄越さないのだから不審だった。といって須永を探しにゆくにも手懸《てがか》りがなかった。
 遂《つい》に夜が明けてしまった。
 帆村には、もう大江山課長の揶揄《からかい》も耳に入らなかった。
「須永は、どうしたんだろう?」
 彼は痺《しび》れるような足を伸して、窓際《まどぎわ》に行った。そして本庁の前を漸《ようや》く通り始めた市内電車の空いた車体を眺めた。
 そのときだった。二人連れの警官が一人の男を引張ってこっちへ来るのが見えた。男は、ズボン一つに、上にはボロボロに裂けたワイシャツを着ていた。よほど怪力と見えて、やっと懸け声をして腕をふると、二人の警官は毬《まり》のように転《ころ》がった。それで自由になったから逃げだすかと思いの外、彼《か》の若者は路上でどこかのレビュウで覚えたらしい怪しげな舞踊を始め、変な節で歌うのであった。可哀想に彼の若者は気が変になっているらしかった。
 帆村は気の毒そうにその人の舞踊をみていたが、どうしたのか、ハッと顔色をかえると、顔を硝子窓《ガラスまど》に擦《す》りつけて叫んだ。
「うん、あれは確かに須永に違いない。どうして気が変になってしまったんだろう」


   右足のない梟《ふくろう》


 此処《ここ》は或る広間の中のことであった。この部屋を見渡して、たいへん不思議に思うことは、窓が一つも見えない上に周囲の壁がのっぺらぼうで扉《ドア》が一つも見えない。どこから出たり入ったりするのか分らない、何階の部屋だかも分らない、しかしその広間には、凡《およ》そ二十|脚《きゃく》ほどの椅子がグルッと円陣をなして置いてあり、その中に、特に立派な背の高い椅子が一つあるが、その前にだけ、これも耶蘇教《やそきょう》の説教台のような背の高い机が置いてあった。人間の姿は見えないが、どうやら会議室らしい。
 と、突然どこからともなく妙な音楽が聞え始めた……と思っていると、いつの間にか置かれた椅子の前にマンホールのような丸い穴がポッカリと明いた。その隙間から、明るい光が見える。それは其《そ》の部屋の床下に点《つ》いている灯《あかり》のようだ。どこかでグーンという機械の呻《うな》る音が聞えた。すると不思議! その穴の一つ一つに、何か黒いものが見えたと思ったら、それが徐々《じょじょ》に上に迫《せ》り上ってきた。見る見るそれは床上から高く突きでてきて、やがて人間の高さになったかと思うと、ピッタリと停った。まるで黒い筍《たけのこ》を丸く植えたように見えた。――そこで黒い筍は号令でもかけたかのように、腰を折って椅子に掛けた。よく見るとその黒い筍の頭の方には、ギラギラ光る二つの眼があった。それは頭のてっぺんから足の下まで、黒い布で作った袋のようにものを被《かぶ》っている人間だったことが、始めて知られた。まことに怪しき黒装束の一団! すると突然、音楽の曲目が違った。
「起立!」
 という号令が掛る、とたんに、いままで空席だった唯一つの机の前に、ボンヤリと人影が現れたかと思うと、それが次第にハッキリとしてきてやがていつの間にか卓子《テーブル》の前には、これも全く一同と同じ服装をした怪人がチャンと起立していた。その首領らしき人物は、ギラリと眼を光らせると、サッと右手を水平にさし上げ、
「右足のない梟!」
 と呼んだ。
 するとそれが合図のようにその隣の黒装束が「壊《こわ》れた水車」と叫ぶ。その隣が「黄色い窓」という。そうして皆が別々に、わけの分らぬことを叫んだが、どうやらそれはこの一団の隠し言葉であって自分の名乗をあげたものらしかった。
「着席!」
「右足のない梟」と叫んだ首領は、そこで自《みずか》ら先に立って席に坐った。一同もこれに倣《なら》って席についた。
「今日はまず最初に、わがR団の第二号礼式を行う。――」
 そういって一同をズッと眺めた。
 すると、また別の、まるで地下に滅入《めい》るような音楽が起って来た。――ギギィッという軋《きし》るような音がして、途端《とたん》に一同の目の前の床が、畳《たたみ》一枚ほどガッと持ち上ってきたと思うと、それは上に迫り上って一つの四角な檻《おり》となった。檻の中には、同じ様な黒装束をした人間が二人突立っていた。
 檻がピタリと停ると、「右足のない梟」の隣にいた「壊れた水車」が席を立って檻に近づき、それを開いて二人を引張り出した。一人は大きいし一人はやや低い。
「壊れた水車」は檻をまた旧《もと》のように床下に下ろした上で、二人を一座の中央に引据えて、その黒い服を剥《は》ぎとった。するとその覆面の下から現れた二つの顔! ああ意外にも、その大きい方の顔は、銀座に猿を連れて現れ、屍体からマッチ箱を盗んでいった大男だった。もう一人は知らない顔だった。
「まず最初に『狐の巣』に宣告する」と首領は言った。「君には秘密にすべきマッチ箱を売った失敗を贖《あがな》うことを命ずる。但《ただ》し我等の祖国は君の名をR団員の過去帖に誌《しる》して、これまでの忠勇を永く称するであろう、いいか」
「狐の巣」は絶望の眼をあげた。途端にドーン……という銃声が響いて「狐の巣」の身体は崩れるように床の上に倒れた。
 例の大きな男は、これを見るや真青になった。


   赤毛のゴリラ


 銃殺に遭った「狐の巣」と呼ばれる男は多量の出血に弱りはてたものと見え、やがて宙を掴んだ手をブルブルと震わせると、そのまま落命した。
「さて次は『赤毛のゴリラ』に対する宣告であるが――」と首領「右足のない梟《ふくろう》」は厳《おごそ》かな口調で云った。一座はシーンと静まりかえって、深山幽谷《しんざんゆうこく》にあるのと何の選ぶところもない。
「――その前に、すこしばかり意見を交換して置きたい。『赤毛のゴリラ』が得意の猿を使ってマッチ箱を奪還《とりかえ》したことは、部下の過失をいささか償《つぐな》った形だが、そのマッチ一箱にはマッチが半数ほど失われている。見ればその箱にはマッチを擦った痕跡もないが一体どこへ失われたのか、意見はないか」
「本員にも明瞭《めいりょう》でありませぬが、お尋ねゆえに私見《しけん》を申上げます」と彼の大男はいった。「失われた半数のマッチは、かの頓死した日本婦人が嚥《の》み下《くだ》したものと思います。だから婦人は一命を損じたのです」
「ナニ嚥み下した。嚥み下すと死ぬのは分っているが、ではかの婦人はあのマッチの尖端が何で出来ているのか知っていたと思うか」
「それは知らなかったと思います。あの婦人は何かの身体の異状によって、マッチの軸《じく》を喰べないでいられなかったのです。つまり|赤燐喰い症《せきりんイーター》です。あの黒い薬をゴリゴリと噛みくだいて嚥んだので、マッチで火を点けたのではないから、箱には擦った痕跡がついていないのです」
「するとその婦人は、あのマッチの不足分は全部胃の中に
前へ 次へ
全8ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング