気孔は太い鉄管になっていて、帆村の身体を楽に呑みこんだ。ソロソロと横に匍ってゆくと、掌《てのひら》は鉄管のために冷え冷えと熱をとられ、そして靴が管壁に当ってたてる音がワンワンと反響して、まるで鬼が咆哮《ほうこう》している洞穴に入りこんだような気がした。一体この空気管はどこへ抜けているのだろう。なにしろこう真暗では、何が何やら見当がつかない。
「おおそうだ。――僕は懐中電灯を持っていた筈だ」
 帆村は重大なことを忘れていたので、思わず暗中で顔を赧《あか》らめた。慌てないつもりでいたが、やはり慌てていたのだ。もちろん生命の瀬戸際で軽業をしているような有様なのだから、慌てるのが当り前かも知れないが……。
「ああ、有ったぞ!」
 帆村はいつも身嗜《みだしな》みとしていろんな小道具を持っていた。彼はチョッキのポケットから燐寸函ぐらいの懐中電灯をとりだした。カチリとスイッチをひねると、パッと光が点いた。有り難い、壊れていなかったのだ。眩しい光芒《こうぼう》の中に異様な空気管の内部が浮びあがった。彼は元気をとりかえして、ゴソゴソと前進を開始した。
 だが、その前進は永く続かなかった。なぜなれば、五メートルほどゆくとそこに円い鉄壁があって、もはや前進が許されなくなった。残念にも空気管はそこで端を閉じているのであった。
「行き停《どま》りか――」
 帆村は吐きだすように云った。これではもう仕方がない、でも空気は冷え冷えと彼の頬を掠《かす》めている。それを思うと、まだ外に抜け道があるに違いない。彼は管の中に腹匍《はらば》いになったまま、ソロリソロリと後退を始めた。そしてすこし下っては、左右上下の天井を懐中電灯で照らし注意深い観察をしては、またすこし身体を後退させていった。彼は次第次第に沈着《ちんちゃく》さを取返してくるのを自覚した。すると遂に彼の予期したものにぶつかった。
「ああ、こんなところに、縦孔《たてあな》があった!」
 縦孔! それはさっき通り過ぎたところに違いなかったのだけれども、その時は慌ててしまって、ついうかうかと通り過ぎたものらしかった。――天井に同じ位の大きさの丸い孔がポカリと開いているのを発見したのであった。
 帆村はその天窓のような孔に顔を入れて、懐中電灯の光を上方に向けてみた。真黒な鉄管は煙突のようにズーッと上に抜けていた。
「こいつを登ってゆこう!」
 と、咄嗟《とっさ》に彼は決心をした――が、どうして登るというのだ? そこは足場もない高い高い鉄管の中だった。ああ、折角《せっかく》の抜け道を発見しながらも、人間業《にんげんわざ》では到底これを登り切ることはできないのか。いや、何事も慌ててはいけない!
「うん。――こうやってみるかナ」
 彼はポンと膝を叩《たた》いた。彼の目についたのは、鉄管と鉄管との継《つ》ぎ目であった。それは合わせるために一方が内側へ少し折れこんでいて、その周囲にリベットが打ってあった。――そいつが足掛りになりはしないか。彼は靴を脱ぎ靴下を取って、跣足《はだし》になった。そして靴下は、ポケットへ、靴は腰にぶら下げると、壁に高く手を伸ばして、そこらを探ると、幸いに指先に手がかりがあった。そこで十の爪に全身の重量を預けて、器械体操の要領でジワジワと身体を腕の力で引上げた。俄《にわか》に強い自信が湧いてくるのを感じた。
 全てが忍耐の結晶だった。
「ウーン、ウーン」
 彼は功を急がなかった。ユルリユルリと鉄の管壁を攀《よ》じのぼっていった。だから、到頭二十メートルもある高所に登りついた。――そして、彼の頭はゴツンと硬い天井を突きあげたのだった。
「ああ、また行き停りか」
 彼は失望のために気が遠くなりそうになりかけて、ハッと気がついた。こんなところで元気を落してはなるものかと唇をグッと噛み、右手をあげて天井を撫でまわした。すると指先にザラザラした粗《あら》い鉄格子が触れた。空気がその格子から抜けているのだった。
 鉄格子ならば、これは後から嵌《は》めたものに違いない。これは下から突くと明くのが普通だと思ったので、帆村は腕に力を籠《こ》めてグッと押しあげてみた。するとゴトリという音がして、その重い鉄格子が少しもち上った。帆村の元気は百倍した。下に落ちては大変だと気を配りながら、満身の力を奮って、鉄格子を押しあげた。格子は彼の想像どおり、ズルズルと横に滑っていった。


   戯《ざ》れ画《え》か密書か?


「ウン、占《し》めたぞ!」
 帆村は元気を盛りかえした。穴の縁に手をかけると、ヒラリと飛び上った。そこはやはり孔の中であった。横に伸びた同じような穴だった。しかし今までの穴とは違い、なんとなく、娑婆《しゃば》に近くなったことが感ぜられた。
 そこで彼は、何か物音でも聞えるかと、全身の神経を耳に集めて、あたりを窺《うかが》った。すると、微《かす》かではあるが何処《どこ》からともなく、ボソボソと話し声が聞えてくるではないか。彼の勇気は百倍した。
 飛んでもゆきたいところを、帆村は敵に悟られないように注意をして、芋虫《いもむし》のようにソロリソロリとその方向に進んでいった。空気管は、やがてグルリと右へ曲っていたがその角を曲ると、彼は、
「ウム……」
 と呻《うな》って、石のように固くなった。五メートルと離れないところに、鉄管の一部が明り窓のように黄色く輝いているのだった。よく見ると、それはさっき彼が押し上げたのと同じような円い鉄格子が嵌《はま》って居り、そして下から光がさしているのだった。
 帆村は再び耳を澄ました。さきほどまで確かに聞えていたと思った話声はもう聞えない。だがどうやら、あの輝く鉄格子の下に部屋があるらしい。――帆村はそこで意を決するとソロソロと格子の方へ躙《にじ》り寄った。
「おう、部屋――」
 果してその下には四坪ほどの小室《こべや》があった。机や椅子や戸棚などが所狭いほど置かれているところを見ると、事務室であることに間違いがない。格子の真下には大きな事務机があり、その前には空っぽの廻転椅子が一つと、その横にも空っぽの椅子が一つ、抛《ほう》り出されたように置かれてあった。さっきの話し手は、この一つの椅子に坐っていたものに違いない。ではこの廻転椅子にいたのは誰だったか。またも一つの椅子の客は何者だったろうか? いずれにしてもそれは敵のものには違いない。
 そこで帆村は注意深く机の上を隅から隅まで観察した。机上《きじょう》には本や雑誌が散らばっているが、その壁に近く、開封した封筒とその中から手紙らしいものが食《は》み出しているのを見つけた。
 それは忽《たちま》ち帆村の所有慾を刺戟した。
「あれが吾《わ》が手に入ったらなァ」
 だが鉄格子はどこで打ちつけてあるのか、ビクリとも動かない。だから格子を外《はず》して降りようたって簡単にはゆかない。見す見す宝を前にして指を銜《くわ》えて引込《ひっこ》むより外《ほか》しかたがないのであろうか。帆村は歯をぎりぎり噛みあわせて残念がった。
「焦《あせ》ってはいけない」と、帆村は自分自身に云いきかした。「それより落着いて考えるのだ。人間の智慧を活用すれば、不可能なものは無い筈だ」
 ジリジリとする心を静めて一分、二分、それから考えた。――
「うん、そうだ。……こいつだッ」
 何を思ったか、彼は下に着ていた毛糸のジャケツをベリベリと裂いた。そして毛糸の端を手ぐって、ドンドン糸を解いていった。それを長くして、二本合わせると、手早く撚《よ》りあわせた。そしてポケットからナイフを取出すと、その刃を出し、手で握る方についている環《わ》に、毛糸の端をしっかりと結えた。そうして置いて、ナイフを格子の間からソロリソロリと下に下した。
 毛糸を伸ばすと、ナイフはスルスルと下に降りて、遂に手紙の上に達した。
「さあ、これからが問題だ!」
 そこで帆村は、釣りでもするような調子で毛糸をちょっと手繰《たぐ》って置いて、パッと離した。ナイフは自分の重味でゴトンと下に落ちて机の上を刺した。それを見ると彼は、注意して毛糸を上に引張った。――果然、机の上の手紙はナイフの尖《さき》に突き刺されたまま、静かに上にのぼって来た。
 手紙はクルクルと廻りながら、とうとう鉄格子の近くまで上って来た。――彼は指を格子の中へ出来るだけ深くさしこんだ。二本の指先が辛うじて手紙の端を圧《おさ》えた。
「占めた!」
 思わず指先が震えだした。途端に封筒がスルリと脱けて下に舞い落ちた。呀《あ》ッと叫ぶ余裕もない。指先には四つ折にした手紙があるのだ。彼は天佑《てんゆう》を祈りながら指先に力を籠めて静かに引張りあげた。遂に手紙の端が格子の上に出た。――もう大丈夫!
 摘《つま》み上げた手紙を、取る手遅しと開いてみれば、こは如何《いか》に、そこには唯《ただ》、水兵が煙草を吸っているような漫画が書き散らしてあるばかりだった。途端に下の部屋にドヤドヤと荒々しい靴の音がした。


   危機一髪


 帆村が空気孔から見下ろしているとも知らず、突然下の部屋に現われたのは、例の密偵団の覆面をした二人の怪人物だった。その一人は首領「右足のない梟《ふくろう》」であることは確かだった。もう一人の人物は、何物とも知れない。
「よく来てくれたねえ」
 といったのは首領だった。
「君の非常警報を受信したので、すぐに軽飛行機で高度三千メートルをとって駈けつけてきた。一体どうしたのだ」
 といったのは、別の人物だった。
 この話から考えると、首領は遂に警報を他の密偵区へ発したものらしい。それで召喚された密偵の一人が早速《さっそく》駈けつけたので、「右足のない梟」が迎えに出たものらしい。
「大変なことが起ったのだよ。『折《お》れた紫陽花《あじさい》』君、例のマッチ箱が日本人の手に渡ったため、わが第A密偵区は遂に解散にまで来てしまった」
「ほう、マッチ箱がねえ」
 といったのは「折れた紫陽花」と名乗る他区の密偵だった。
「それは君のところだけの問題でなく全区の大問題だ」
「しかし心配はいらぬ。すぐマッチ箱はマッチの棒とも全部回収した」
「それは本当か」
「まず完全だ。ただマッチの棒の頭を噛《か》んで死んだ婦人の屍体《したい》の問題だが、これも今日のうちに盗み出す手筈《てはず》になっているから、これさえ処分してしまえば、後は何にも残っていない」
「それならよいが……だが日本人はマッチの棒の使い方を感付きやしなかったかナ」
「それは……」と「右足のない梟」はちょっと言葉を切ったが「まず大丈夫だ。恐ろしい奴は帆村という探偵だが、こいつも樽の部屋に永遠の休息を命じて置いたから、もう心配はいらぬ」
「永遠の休息か。フフフフ」と「折れた紫陽花」は笑いながら「マッチの棒の使い方が分ると、われわれの持っている秘密文書はことごとく書き改められねばならない。そうすることは不可能でない迄《まで》も、例の地点に於《お》けるわれわれの計画は少くとも三箇月の停頓を喰うことになる」
「マッチの棒は、もう心配はいらぬよ」
「そうあってくれないと困るがネ、ときに早速仕事を始めたいと思うが、僕は何を担当して何を始めようかネ」
「そうだ、もう愚図愚図《ぐずぐず》はしていられないのだ。こんなに停頓することは、われわれの予定にはなかったことだ。そうだ、先刻《さっき》本国の参謀局から指令が来ていた。それを早速君に扱ってもらおうかなァ」
 といって首領は立ち上ると手紙を取るために机の方にいった。
「ほう、本国の指令とあれば、誰よりも先に見たいと思う位だ。どれどれ見せ給え」
「ちょっと待ち給え。――おや、これはおかしいぞ。封筒があるのに、中身が見えない……」
「右足のない梟」はすこし周章気味《あわてぎみ》で、机の上や、壁との間の隙間や、はては机の抽出《ひきだし》まで探してみた。だが彼の探しているものはとうとう見付からなかった。彼の顔はだんだんと蒼《あお》ざめてきた。
「どうしたというのだネ。指令書は……」
「全く不思議だ。見当らない。この部屋には僕の外、誰も入って来ない筈なのだが
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