んか」
「ほう――」
 と大江山課長は叫んで、燐寸の箱を開いてみると、なるほど不思議にも燐寸の軸木《じくぎ》は半分ほどしか入っていなかった。


   怪紳士


「どうも僕には、事件に関係のない極く普通の燐寸としか考えられないがね」と大江山捜査課長は首を振って「ねえ雁金《かりがね》さん。そうじゃありませんか」と、事件を主査《しゅさ》している雁金検事の同意を求めた。
「さあ、どっちかな」と検事はこっちへ寄ってきながら、「これはまたいつもの御両所の水かけ論になりそうだネ。議論は一寸《ちょっと》お預けとしてマッチの秘密がとけてからのことにすればいいじゃないか」
 検事はいつも、大江山課長と帆村探偵の意見の対立で、散々手を焼いていたので、巧《たく》みに逃げた。
「そうでしょうが、この帆村は非常に重大視します」と帆村はいつになくハッキリと意志を現して云った。「燐寸というものが極く普通のものだけにこれを利用した疑問の人物を唯者《ただもの》でないと睨《にら》みます」
「しかし利用したかどうかはまだ分らない。なにしろ燐寸は一度も擦った痕がない位だからな」
「いや立派に利用していますよ。擦ってないから可笑《おか》しいのです。擦ってあるんだったら軸木が半分なくなっても別に不思議もないのです」
「それほど不思議なら、燐寸の箱を壊《こわ》してよく調べてみたらどうだネ」と検事は云った。
「ねえ大江山君。その燐寸をバッグから出して帆村君に委《まか》せてもいいだろう」
「ええ、ようござんすとも。……では、出して来ましょう」
 そういって大江山課長は、一人離れて、屍体の方に近づいた。そして跼《かが》んで、なにかゴソゴソやっていたが、なかなか立ち上ろうとしなかった。そのうちに、課長は不審そうな面持《おももち》で一同をジロリと眺めまわし、
「ああ……誰かこの手提《バッグ》の中から時計印の燐寸を持って行きやしないか」
「燐寸ですって?……いいえ」
「燐寸は先刻《さっき》収《しま》ったままですよ」
「誰も持っていった者がない!……さては……やられたッ」
 やられたッ! と大江山課長が叫んだので、立ち並んだ検察隊は俄《にわ》かにどよめいた。
「帆村君、燐寸が見えない。これは中々《なかなか》の事件らしいぞ」
 流石《さすが》事件の場数を経てきた捜査課長だけあって、ここへ来て始めて事件の重大性を悟ったのだった。帆村は別に驚いた顔もしていなかった。
「やっぱり、そうでしたか」
「そうだったとは……。君は何か心当りがあるのかネ」
「イヤさっき向うの飾窓《ショウインドウ》のところに、一人の身体《からだ》の大きな上品な紳士が、一匹のポケット猿を抱いて立ってみていましたがネ。そのうちにどうした機勢《はずみ》かそのポケット猿がヒラリと下に飛び下りて逃げだしたんです。そしてそこにある婦人の屍体の上をチョロチョロと渡ってゆくので警官が驚いて追払《おいはら》おうとすると、そこへ紳士が飛び出していって素早く捕えて鄭重《ていちょう》に詫言《わびごと》をいって猿を連れてゆきました。その紳士が曲者《くせもの》だったんですね」
「ナニ曲者だった?」課長は噛《か》みつくように叫んだ。
「そんならそうと、何故《なぜ》君は云わないんだ。そいつが掏摸《スリ》の名人かなんかで、猿を抱きあげるとみせて、手提《バッグ》から問題の燐寸を掏《す》っていったに違いない――」
「でも大江山さん、沢山《たくさん》の貴方の部下が警戒していなさるのですものネ。私が申したんじゃお気に障《さわ》ることは分っていますからネ」
 大江山は、昔から彼の部下が帆村を目の敵にして怒鳴りつけたことを思い出して、ちょっと顔を赧《あか》くした。
「とにかく怪しい奴を逃がしてしまっては何にもならんじゃないか。気をつけてくれなきゃあ、――」
「ああ、その怪紳士の行方《ゆくえ》なら分りますよ」
「なんだって?」と大江山は唖然《あぜん》として、帆村の顔を穴の明くほど見詰めた。そして、やがて、
「どうも君は意地が悪い。その方を早くいって呉れなくちゃ困るね。一体どこへ逃げたんだネ」
「さあ、私はまだ知らないんですが、間もなくハッキリ分りますよ」
「え、え、え、え?――」
 流石の大江山課長も今度は朱盆《しゅぼん》のように真赤になって、声もなく、ただ苦し気に喘《あえ》ぐばかりだった。


   奇怪なる発狂者


「帆村君、君は本官《ぼく》を揶揄《からか》うつもりか。そこにじっと立っていて、なぜ、あの怪紳士の行方が分るというのだ」
 大江山捜査課長は真剣に色をなして、帆村に詰めよった。さあ一大事……。
「冗談じゃない、本当なのですよ、大江山さん」と、帆村は彼の癖で長くもない頤《あご》の先を指で摘《つ》まみながらいった。「これは雁金検事さんにも聞いていただきた
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