に出たものらしい。
「大変なことが起ったのだよ。『折《お》れた紫陽花《あじさい》』君、例のマッチ箱が日本人の手に渡ったため、わが第A密偵区は遂に解散にまで来てしまった」
「ほう、マッチ箱がねえ」
といったのは「折れた紫陽花」と名乗る他区の密偵だった。
「それは君のところだけの問題でなく全区の大問題だ」
「しかし心配はいらぬ。すぐマッチ箱はマッチの棒とも全部回収した」
「それは本当か」
「まず完全だ。ただマッチの棒の頭を噛《か》んで死んだ婦人の屍体《したい》の問題だが、これも今日のうちに盗み出す手筈《てはず》になっているから、これさえ処分してしまえば、後は何にも残っていない」
「それならよいが……だが日本人はマッチの棒の使い方を感付きやしなかったかナ」
「それは……」と「右足のない梟」はちょっと言葉を切ったが「まず大丈夫だ。恐ろしい奴は帆村という探偵だが、こいつも樽の部屋に永遠の休息を命じて置いたから、もう心配はいらぬ」
「永遠の休息か。フフフフ」と「折れた紫陽花」は笑いながら「マッチの棒の使い方が分ると、われわれの持っている秘密文書はことごとく書き改められねばならない。そうすることは不可能でない迄《まで》も、例の地点に於《お》けるわれわれの計画は少くとも三箇月の停頓を喰うことになる」
「マッチの棒は、もう心配はいらぬよ」
「そうあってくれないと困るがネ、ときに早速仕事を始めたいと思うが、僕は何を担当して何を始めようかネ」
「そうだ、もう愚図愚図《ぐずぐず》はしていられないのだ。こんなに停頓することは、われわれの予定にはなかったことだ。そうだ、先刻《さっき》本国の参謀局から指令が来ていた。それを早速君に扱ってもらおうかなァ」
といって首領は立ち上ると手紙を取るために机の方にいった。
「ほう、本国の指令とあれば、誰よりも先に見たいと思う位だ。どれどれ見せ給え」
「ちょっと待ち給え。――おや、これはおかしいぞ。封筒があるのに、中身が見えない……」
「右足のない梟」はすこし周章気味《あわてぎみ》で、机の上や、壁との間の隙間や、はては机の抽出《ひきだし》まで探してみた。だが彼の探しているものはとうとう見付からなかった。彼の顔はだんだんと蒼《あお》ざめてきた。
「どうしたというのだネ。指令書は……」
「全く不思議だ。見当らない。この部屋には僕の外、誰も入って来ない筈なのだが……」
「もし指令書が紛失したものなら、これは重大なる責任問題だよ」
「そうだ。紛失したのならネ……。ウム、これはひょっとすると……」
そういって、A首領の「右足のない梟」は、中身のない封筒を摘みあげて、電灯の下で仔細《しさい》に改めていたがそのうちに、
「ほほう、この鋭い刃物の痕《あと》のようなものは何だろう?」
と頭をひねった。
「刃物の痕だって?」
「そうだ、封筒の上に深い刃物の痕がついているが、これは私《わし》の知らぬことだ」といいながら机の上に近づいて、その上に拡げられている大きな吸取紙の上に顔をすりつけんばかりにして何ものかを探していたが、やがて「ウン、あったぞ。ここにも刃物の痕がある。こっちの方が痕が浅いところをみると、封筒の上から刃物で刺し透したのだ。誰がやったのだろう。この位置だとすると……」
首領はハッと首をすくめると、懐中から鏡を出して、その中を覗きこんだ。その鏡の底には、丁度真上にあたる帆村の隠れている空気孔の鉄格子がハッキリうつっていた。帆村の危機は迫った。
死線を越える時
天井の鉄格子の間から下を見下ろしていた帆村探偵は
「失敗《しま》った!」
と叫んだ。首領「右足のない梟《ふくろう》」は帆村がひそんでいることに気がついたらしい。ではどうする?
帆村は咄嗟《とっさ》に決心を定《き》めた。彼は鉄格子に手をかけると、エイッと叫んでそれを外《はず》した。そして躊躇《ちゅうちょ》するところなく、両足から先に入れ、ズルズルと身体をぶらさげ、ヒラリと下の部屋に飛び下りた。無謀といえば無謀だったが、戦闘の妙諦《みょうたい》はまず敵の機先を制することにあった。それに帆村は既に空気管の中の模様を見極めているので、この上その中に潜入していることが彼のために利益をもたらすものではないという判断をつけていたからだった。
「ヤッ……」
帆村は四角い卓の死角を利用して、その蔭にとびこんだ。二人の敵はこの大胆な振舞に嚥《の》まれてしまって、ちょっと手を下す術《すべ》も知らないもののようだったが、帆村が隠れると同時に内ポケットから拳銃《ピストル》をスルリと抜いて、ポンポンと猛射を始めた。狭い室内はたちまち硝煙のために煙幕を張ったようになり、覘《ねら》う帆村の姿が何処にあるかを確かめかねた。
もちろん帆村はその機会を逃がしてはならぬと思った。
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