暫《しばら》く黙っていたが「函は普通のマッチ函ですこしも怪しくはない。怪しいのはマッチの棒だ」
「マッチの棒? それがなぜ怪しい」
「函の中に半分くらいしか残っていなかった。その癖、擦った痕が一つもない……」
「そんなことは分っている。それ以上のことを云いたまえ」
「だから云ってるではないか。残りの半分のマッチの棒は、あの銀座の鋪道に斃れた川村秋子《かわむらあきこ》という懐姙《みもち》婦人が喰べてしまったのだ」
「ナニ、あの女が喰べた?……」
「そうだ」と帆村は首領の駭《おどろ》くのを尻目《しりめ》にかけて喋りつづけた。「喰べたから、擦り痕がついていないのだ。喰べても大して不思議ではない。姙婦というものは、生理状態から変なものを喰べたがるものだ。この場合の彼女は、胎児の骨骼《こっかく》を作るために燐が不足していたので、いつもマッチの頭を喰べていたのだ。あの日も何気なしに、あのマッチ函を君の一味から買ったのだ、そこは店の表から見ると、何の変哲もない煙草店だった、だからそんな恐ろしいマッチともしらず、君の仲間が間違えたまま一函買いとってそしてガリガリ噛みながら、銀座へ出てきた。ところが……」
「ところが――どうしたというのだ」
「ところが、そのマッチは特別に作ったもので、燐の外に、喰べるといけない劇薬が混和されていたのだ。イヤ喰べるとは予期されなかったので劇薬が入っていたのだといった方がよいだろう。その成分というのは……」
「うん。その成分というのは――」


   怪《あや》しき図譜《ずふ》


「さあ、早く云わぬか。――そのマッチの成分というのは何だったと云うのだ!」
 と、首領「右足のない梟《ふくろう》」はせきこむように詰問した。
「極秘のマッチの成分なら、君がたの方がよく知っているじゃないか」
 と、帆村は肝腎のところで相手の激しい詰問に対し、軽く肩すかしを喰わせた。
「嘲弄《ちょうろう》する気かネ。では已《や》むを得ん。さあ天帝に祈りをあげろ」
「あッ、ちょっと待て!」
「待てというのか。じゃ素直に云え」
「云う、といったのではない、それよりも――君のために忠告して置きたいことがあるからだ」と帆村は騒ぐ気色もなく「僕を殺すのは自由だが、すると例のマッチがわが官憲の手に渡り、添えてある僕の意見書によって綿密な分析が行われ、結局君たちの計画が大頓挫《だいとんざ》をするが承知かネ」
「マッチが日本官憲の手に渡るというのか。そんな莫迦《ばか》なことがあってたまるか。残りのマッチ函は『赤毛のゴリラ』の働きで取りかえしてあることは知っているではないか」
「そうでない。川村秋子の胃液に交っているのを分析すれば分る」
「そんな事なら心配いらない。胃酸に逢えば化学変化を起して分らなくなる。はッはッ」
「まだ有る。安心するのは早いぞ。――実は僕があのマッチ函から数本失敬して某所《ぼうしょ》に秘蔵している。僕がここ数日間帰らないと、先刻《さっき》云ったようにそのマッチと僕の意見書とが、陸軍大臣のところへ提出されることになる。そうなれば後はどんなことになるか君にも容易に想像がつくだろう」
「ウーム、貴様という貴様は……」
 と、首領は全身をブルブル震わし、銃口をグイグイと帆村の肋骨《あばらぼね》に摺《す》りつけたが、引金を引くと一大事となるので、歯をギリギリ云わせて射撃したいのを怺《こら》えた。
「さあ、撃つなら撃つがいい……どうして撃たないのだ」
「ウム――」
 と相手は気を呑まれて一歩退いた。――と、エイッという気合が掛かって首領の身体は風車のようにクルリと大きく一回転すると、イヤというほど床の上に叩きつけられた。敵がひるんだと見るやその直後の一瞬時《いっしゅんじ》を掴んだ帆村の早業の投げだった。――死にもの狂いの相手はガバと跳ね起きてピストルの引金を引こうとするのを、
「この野郎!」
 と飛びこんだ帆村がサッと足を払って、また転がるところを隙《す》かさず逆手を取って上からドンと抑えつけた。
「さあ、どうだ」
 主客はハッキリと転倒してしまった。――帆村が云い含めてあったのか、この騒ぎのうちに、彼に救われた「赤毛のゴリラ」はサッと部屋から飛び出していった。
「右足のない梟君!」と帆村は逆手をとったまま首領に云った。「君の覆面は武士の情で、その儘《まま》にして置いてあげよう。――さあ、これから君にちと[#「ちと」に傍点]働いて貰わねばならぬが、それはこの巣窟《そうくつ》の案内だ。ここにはいろいろな怪しい仕掛があるようだ。第一に気になるのは君が先刻《さっき》まで掛けていた椅子についている梟の彫刻だ」
 といって帆村は首領の座席だった椅子を指《ゆびさ》した。
「怪しいと思うのは、あの梟の眼だ。あれは押し釦《ぼたん》になっているに違いない。君を傍へ
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