の主、今は亡き稲田老夫婦の遺児お里に外ならなかった。――奥のかた霊前では、既に立ち去ろうとした北鳴四郎が、ばつの悪そうな、というよりも寧《むし》ろ恐怖に近い面持をして、落著《おちつ》かぬ眼《まなこ》を四囲にギロギロ移していた。
6
「奥に四郎さんが来ていますよ」
と、お里に注意をした者があった。
「まあ、四郎さんが……」
その昔の情人、北鳴四郎がこの町に帰ってきているとは、予《かね》て町の人々からうるさいほど噂には聞いていたが、思いがけなく、この奥に四郎が居ると聞かされて、お里は吾れにもなくポーッと頬を赤らめた。とたんに両手に抱えていた花束が、急にズッシリと重くなったのを感じた。
だが、その瞬間、お里の心は静かな湖水の水のように鎮まっていった。昔は昔、今は今である。今は夫英三に仕える心の外に、何物もない。何者にも恐れることはないのだ。恐らく四郎は、あの日、彼を裏切った自分や、露骨な妨害を試みた亡き両親などに復讐の念を抱いて、この町へ帰ってきたのだろう。しかしそれは今更、詮ないことだ。恨みといえば、恨みは彼女自身にあったかも知れない。なぜあのとき、四郎はもっと率直
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