た。
櫓を組みかけた工事場では、縄を腰簑《こしみの》のように垂らした人夫が丸太棒の上からゾロリゾロリと下りてくるのが見られた。傍《かたわら》に繋《つな》がれた馬は轅《ながえ》を外されて、人家の軒の方に連れてゆかれようとしている。そこへ工事監督の松吉がバラバラと駈けてきた。
「ねエ、北鳴の旦那。……これはちょうど夕立が来ますから、皆を休ませますよ」
「休ませちゃ困るな。まだ三十尺も出来てないじゃないか」と北鳴は苦がい顔をした。「よしッ、今日一杯に百尺の櫓が出来れば、百両の懸賞を出す」
「えッ、百両」と松吉が驚く。
「ほう、百両の懸賞!」と稲田仙太郎も共に驚いた。なんという思い切ったことをする北鳴だろう。ワンワン金が唸っている彼の懐中が覗いてみたいくらいだった。
「じゃ、やりましょう。……オイ皆、休んじゃいけないぞ。後で一杯飲ませるから、なんでも彼《か》でも、今日中に組みあげてしまうんだ」
しかし人夫はなかなか動こうとしなかった。この土地は、甲州地方に発生した雷の通り路になっていた。折柄《おりから》の雷のシーズンを迎えて、高い櫓にのぼるには、相当の覚悟が必要だった。
人夫の逡巡《しゅんじゅん》のうちに、いよいよ疾風がドッと吹きつけてきた。黒雲は、手の届きそうな近くに、怒濤のように渦を巻きつつ、東へ東へと走ってくる。
ピカリッ!
一閃すると見る間に、向うの野末に、太い火柱が立った。落雷だ。
「……どうです、北鳴さん。私の家はすぐそこですから、夕立の晴れるまで、ちょっとお寄りなすって雨宿りをせられてはどうです」
稲田老人は、北鳴四郎の洋服を引張らんばかりにして云った。
「ええ、ではちょっと御厄介になりますかな」
「ああ、それは有難い。……ささ、そうなされ」
北鳴は、松吉を激励して、工事場を出ようとした。そのとき外からアタフタと駈けこんで来た男があった。
「オイ松さん。松さんは居ないか」
「おお化の字。儂はここに居るが……何か用か」
「やあ松さん、たいへんだ。お前の建てた半鐘梯子に雷が落ちたぞ。バラバラに壊れて、燃えちまった。下に繋いであった牛が一匹、真黒焦《まっくろこげ》になって死んでしまったア」
「ええッ。……」
呆然たる松吉の方を、それ見たかといわん許《ばか》りの眼つきで睨んで、北鳴四郎は沛然《はいぜん》たる雨の中を、稲田老人と共に駈けだしていった。
4
いまは瀬下英三に嫁入った娘お里の、曾《かつ》ての情人北鳴四郎を、稲田老人夫妻は二階へ招じあげて、露骨ながらも、最大級の歓待を始めたのだった。
そこには、酒の膳が出た。近所で獲れる川魚が、手早く、洗いや塩焼になって、膳の上を賑わしていた。
「折角ですが、酒はいただきませぬ」
「まあ、そう仰有《おっしゃ》らずに、昔の四郎さんになってお一つ如何《いかが》」
と老婆は執拗にすすめる。
「いや、博士論文が通るまでは、酒盃を手にしないと誓ったので、まあ遠慮しますよ」
「へえ、四郎さんが、博士になりなさるか。……」
と、老婆は稲田老人と目を見合わせて、深い悔恨の心もちだった。お里の今の婿の英三は、一向に栄《は》えない田舎医者。老人の腎臓を直したのが、関の山、毎日自転車で真黒になって往診に走りあるいているが、宝の山を掘りあてたという話も聞かなければ、博士はおろか、学士さまになることも出来ないらしい。いずれ親譲りがある筈だった財産というのも、近頃親の年齢甲斐《としがい》もない道楽で、陽向《ひなた》に出した氷のようにズンズン融けてゆくという話である。その当て外れした心細さに引きかえ、曾ては仲を裂きまでした北鳴が、こうして全身から後光の出るような出世をして、二千円や三千円の金は袖に入れているという風な豪華さで、さらに博士まで取ろうとしている。老人たちにとって、それは痛くもあり、且《か》つは羨《うらやま》しいことであった。なんとかして機嫌をとって置いて、何とかして貰いたいものをと、彼等の慾心は勘定高いというにはあまりにも無邪気だった。
「……そこで四郎さん。あの高い櫓を拵《こしら》えてどんなことにお使いなさるですか」
と、老夫人は団扇《うちわ》の風を送りながら訊いた。
「ホウ、それそれ。わしもそれを伺おうと思っていたところだ。……」
と稲田老人も膝をすすめる。
「……あの櫓のことですか」と、二人の顔を見て北鳴はニヤリと笑った。二階の欄干をとおして、雨中に櫓を組む人夫の姿が、彼の眼底に灼《や》きつくように映った。
「はッはッはッ。あれを見て、貴方がたはどんな風にお考えですか。いやさ、どんな感じがしますかネ」
「どんな感じといって、……別に……」
と、老人夫妻はその答に窮したが、そのときの気持を強《し》いて突き留めてみれば、この二階家から同じ距離を置いて左右に
前へ
次へ
全11ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング