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いまは瀬下英三に嫁入った娘お里の、曾《かつ》ての情人北鳴四郎を、稲田老人夫妻は二階へ招じあげて、露骨ながらも、最大級の歓待を始めたのだった。
そこには、酒の膳が出た。近所で獲れる川魚が、手早く、洗いや塩焼になって、膳の上を賑わしていた。
「折角ですが、酒はいただきませぬ」
「まあ、そう仰有《おっしゃ》らずに、昔の四郎さんになってお一つ如何《いかが》」
と老婆は執拗にすすめる。
「いや、博士論文が通るまでは、酒盃を手にしないと誓ったので、まあ遠慮しますよ」
「へえ、四郎さんが、博士になりなさるか。……」
と、老婆は稲田老人と目を見合わせて、深い悔恨の心もちだった。お里の今の婿の英三は、一向に栄《は》えない田舎医者。老人の腎臓を直したのが、関の山、毎日自転車で真黒になって往診に走りあるいているが、宝の山を掘りあてたという話も聞かなければ、博士はおろか、学士さまになることも出来ないらしい。いずれ親譲りがある筈だった財産というのも、近頃親の年齢甲斐《としがい》もない道楽で、陽向《ひなた》に出した氷のようにズンズン融けてゆくという話である。その当て外れした心細さに引きかえ、曾ては仲を裂きまでした北鳴が、こうして全身から後光の出るような出世をして、二千円や三千円の金は袖に入れているという風な豪華さで、さらに博士まで取ろうとしている。老人たちにとって、それは痛くもあり、且《か》つは羨《うらやま》しいことであった。なんとかして機嫌をとって置いて、何とかして貰いたいものをと、彼等の慾心は勘定高いというにはあまりにも無邪気だった。
「……そこで四郎さん。あの高い櫓を拵《こしら》えてどんなことにお使いなさるですか」
と、老夫人は団扇《うちわ》の風を送りながら訊いた。
「ホウ、それそれ。わしもそれを伺おうと思っていたところだ。……」
と稲田老人も膝をすすめる。
「……あの櫓のことですか」と、二人の顔を見て北鳴はニヤリと笑った。二階の欄干をとおして、雨中に櫓を組む人夫の姿が、彼の眼底に灼《や》きつくように映った。
「はッはッはッ。あれを見て、貴方がたはどんな風にお考えですか。いやさ、どんな感じがしますかネ」
「どんな感じといって、……別に……」
と、老人夫妻はその答に窮したが、そのときの気持を強《し》いて突き留めてみれば、この二階家から同じ距離を置いて左右に
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