丸太は、すべて松吉の所有になる約束だったから、なんのことはない、人夫の手間以外は、まる丸儲けの形だった。
「やあ、北鳴の四郎さんじゃありませんか。これはお久しゅう」
 といって、工事を指図している北鳴のところへ近づいてきた商人体の老人があった。
「ああ、私は北鳴ですが貴方は誰方《どなた》でしたかナ」
 といって、北鳴は藤の洋杖《ステッキ》の頭についたピカピカする黄金の金具を撫でながら、訝《いぶか》しそうに応えた。だがその言葉の語尾は、なんとなく怪しく慄《ふる》えを帯びていた。
「……ああ、お忘れになったも無理はない。私は五年前からひどい腎臓を患うたもので、酒と煙草とを断ち、身体は痩せるし顔色は青黒くなるし、おまけに白髪《しらが》が急に殖えてきて……とにかく姿は変りましたが、稲田仙太郎《いなだせんたろう》ですわい」
「稲田仙太郎?……ああ稲田のお父《と》っさんでしたか」
「稲田のお父っさん?……おお、よく云って下すった。お父さんと今でも呼んで呉れますかい。それでは貴方はこの私を憎んではいなさらぬのだナ。ああ私はどんなにか安心をしましたわい。……北鳴さん、立派になられたなア。こんなに立派になられようとは、遉《さすが》の私も全く思いがけなかった」
「はッはッはッ。なにを仰有《おっしゃ》います。……」
 北鳴は身を後へ反らせながら、晴れやかに笑った――つもりだったが、その高らかな声の中に依然たる空虚な響の籠っているのが隠せなかった。
「……聞けば、博士論文を書くため、この町へ帰って来られたそうだが、この高い櫓も、その博士論文の実験に使うとかいう話を聞きました。私の家の二階からは、丁度この二つの櫓が、よく見えるので……どっちも私の家から丁度同じ位の距離ですナ……それで御機嫌伺いかたがたやって来ましたが、仕事のお閑《ひま》には、ぜひ家へ寄って下さい。婆も、貴方に一度お目に懸って、是非《ぜひ》一言お詫びがしたいといっていますわい」
「お詫びなどと、そんな話はよしましょう。……しかしお薦めに従い、近いうちにお邪魔に上りますよ」
 そういう話のうちに、さっき西空に投げだしたような黒雲があったと思ったが、それがいつの間にやらグングンと黒い翼を拡げてしまって、誰が見ても相当物凄い夕立の景色になってきた。サッと一陣の涼風が襟首のあたりを撫でてゆくかと思うと、ポツリポツリと大粒の雨が降って来
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