に、落ちてきた。そして、呀《あ》ッという間に、ヌラヌラと、顔や腕を撫でて、下へ墜落していった。それは、政の身体だった。辛うじてわし[#「わし」に傍点]が掴んだ政の身体だった。(これを離しては……)と私は懸命に怺《こら》えたが、その恐ろしい重力に勝つことが出来ず、遂《つい》にツルリと、わし[#「わし」に傍点]の指の間から脱けて、あいつ[#「あいつ」に傍点]の身体は、ヒラヒラと風呂敷のように、コンクリートの床を目懸けて、落ちていった。いや、全《まった》く、政の身体は風呂敷のように、舞いながら、墜ちて行ったのだった。わし[#「わし」に傍点]は、どうしたものか、急に笑いたくなって、クッ、クッ、ウフウフと、鉄梯子に、しがみついた儘《まま》、暫くは、動くことが出来ない程だった。
6
「これは横瀬さん。珍らしいね。さァ、こっちへ入ったり、入ったり」
わし[#「わし」に傍点]は、珍客の来訪にあって、だだっ広い、合宿の舎監《しゃかん》居間の一室へ招《しょう》じ入れた。
「今日は、何の御用かな」わし[#「わし」に傍点]は尋《たず》ねた。
「実は一つ聴いていただきたいことがあるのでして……」横瀬は、例のモジャモジャ頭髪《かみ》に五本の指を突込むと、ゴシゴシと掻《か》いた。
「どんな話かしらぬが、言ってごらんなせえな」わし[#「わし」に傍点]はチラリと、置時計の方を見たが、もう午後十時に近かった。
「じゃ、聴いて貰いますか」そう云って横瀬は、莨《たばこ》を一本、口に銜《くわ》えた。「これは、俺《おれ》の知っている、或る男の、素晴らしい計画なんだ。ねえ、その男は、自分の情婦《おんな》を、若い男に失敬されちまったんだ。いや、おまけに、情婦というのが、若い男の胤《たね》を宿しちまった。いいですか。これが普通の場合だったら、旦那どの胤だと、胡魔化《ごまか》せるんだが、生憎《あいにく》と、その旦那どのというのは、女に子を産ませる力がないことが医学的に判っているのだ。それで、胎《はら》の子を、胡魔化しようもないので、若い二人は秘《ひそ》かに会って泣きながら相談した。いい智恵も見付からぬ裡《うち》に、女の身体はだんだんと隠せない程、変ってくる。とうとう仕方なしに、胎の子には罪なことだが、堕胎《だたい》をすることに決心をした。若い男は、堕胎道具と、薬品を、さるところで手に入れて、女を呼びだした。二人は非常に人目を忍ぶ事情にあるというのが、これが鳥渡《ちょっと》でも、旦那どのの耳に入れば、二人とも殺されてしまうに、きまってる。そこで誰にも知られぬ秘密の逢《あ》い場所というのが必要だったが、それは、たった一つあった。どこだと云うと、若い男の勤《つと》めている工場の、クレーンの上だった。若い男は、クレーンの運転手なんだ。工場が引けてしまうと、あの広い内部が、がらん胴《どう》だ。幸い女も、工場の案内を知っていた。というのが、その女も工場に働いていたのだ。女は恋しい男に逢いたいばっかりに、真暗《まっくら》な工場に忍び入り、非常に高い鉄|梯子《ばしご》を女の力で昇ったり、降りたりしたのだ。さて堕胎手術も、勿論《もちろん》その高いクレーンの上で、やることになった。若い男は教わって来たとおり、道具を女の身体に、挿《さ》し入れて、或る薬液を注入した。それは或る時間の後になって、成功したことが始めて判った。しかし女は、暫くの間、工場を休み、病臥《びょうが》しなければならなかった。だが折角《せっかく》の二人の苦心も水の泡だった。というのが、旦那どのが、女の様子から、疑惑を生じたためだった。その男は非常に嫉妬《しっと》深い奴《やつ》だったが、人一倍、利口な男なので、それと色には出さず、さまざまの苦心をして、情婦《おんな》をめぐる疑雲《ぎうん》について、発見につとめた。鬼神《きじん》のような其《そ》の男は、なにもかも知ってしまった。二人の身辺《しんぺん》から、歴然たる証拠も掴《つか》んだのだった。それより、ずっと前、旦那どのは、大体の輪廓《りんかく》を知ったので、憎むべき二人に対して、どんな復讐《ふくしゅう》をしようかと、画策《かくさく》した。その結果、考え出したのは、世にも恐ろしい二人の自滅《じめつ》計画だった。彼は、二人が堕胎を計った第九工場というのに、(夜泣《よな》き鉄骨《てっこつ》)という怪談を植《う》えつけた。その実、彼がコッソリ、夜中になると、工場へ忍びこみ、自分で、クレーンをキィキィ云わせたのだ。最後に、彼自身が、化物探険隊の先登《せんとう》に立って、真偽《しんぎ》を確《たしか》めたが、上と下とのスウィッチが、どっちも開《あ》いているのに、クレーンが、轟々《ごうごう》と動いたというので、これはいよいよ、怨霊《おんりょう》の仕業《しわざ》ということに極《き》まった。その実、その旦那先生が、先に立って、一々スウィッチを外《はず》して置いたのだ。怨霊の仕業ということになると、一番|戦慄《せんりつ》を感じたのは、若い男と、例の女だ。二人とも大いに思い当るところがある。というのは、自分達が手を下して闇から闇へ送ってしまった胎児《たいじ》の怨霊のせいに違いないと思いこんでしまう。さァ、こうなると、旦那どのの計画は、いよいよ思う壺《つぼ》に嵌《はま》っていったというわけだ。探険の結果、これは怨霊の外《ほか》に、理由がつかないと決定した夜のこと、旦那どのは、夜業《やぎょう》をしている情婦《おんな》のところへ行って、遂に引導《いんどう》の言葉を渡してきた。それは、のっぴきならぬ証拠を手に入れたので、明日になったら、警察へ告発するぞと脅《おど》したのだ。情婦は、思い余《あま》って、自殺の意を決し、自分の働いている工場の熔融炉《キューポラ》に飛びこんで、ドロドロに熔《と》けた鉛《なまり》の湯の中に跡方《あとかた》もなく死んでしまった。こんどは、若い男の番だった。旦那どのは、探険隊の中に、その男を入れることを忘れなかった。若い男を、ジリジリと苦しめてゆくのが、たまらなく快感を唆《そそ》ったのだった。若い男は、クレーンが独《ひと》りで動き出す大恐怖《だいきょうふ》の前に、永い間、ひき据《す》えられていた。更《さら》に、戦慄《せんりつ》を禁《きん》じ得《え》ないクレーンの上へ、引張り上げられたり、又降ろされたりした。そこへ、突如として、女の自殺を聞いた。それには旦那どのも遽《あわ》てた位だ。若い男は、女の飛込んだ熔融炉目懸けて、駈け出して行った。彼も女の跡を追って、この炉の中で死のうと決心した。そう思うと、彼は脱兎《だっと》のように熔融炉の鉄梯子を、かけ上ったのだ。友人の一人が助けようとして、後から上ろうとすると、そこへ旦那どのが、飛び出して、彼をつきとばした。そして、旦那どのは、恨《うら》み重なる男のあとにつづいて梯子を上って行ったのだ。これを見ていた人々は喝采《かっさい》した。それもそうだろう。いやたった一人を除いてはネ。そいつは、工場の隅《すみ》から、コッソリこの場の光景を眺めていた俺によく似た男さ、はッはッはッ。だが、その男にも、旦那どのの復讐が、どのように行われるのか、見当がつかなかった。ひょっとすると、旦那どのは、わざと梯子昇りの速力《スピード》を落として、(残念ながら、追いつけなくて、若い男を殺してしまった!)と云いわけするのかと思っていたが、見ていると、どうやら、そうではない。いや、それは、鬼のように恐ろしい計画だった。旦那どのの考えは若い男が一旦飛び込んで、熱鉛《ねつえん》のため赤《あか》爛れに爛《ただ》れたところで若い男の死骸をひっぱり出すことにあった。俺は旦那どのが、梯子の上で嬉しそうに笑っているのに感付いた唯一《ゆいいつ》の人間だったかも知れない。若い男は、彼の手を離れて、コンクリートの床の上に叩きつけられたが、二た眼と見られた態《ざま》じゃなかった。旦那どのは、別に咎《とが》められもしなかった」
「面白い話だなァ、若《わ》けえの」わし[#「わし」に傍点]は、静かに云った。「だが一つ腑《ふ》に落ちねえことがあるから尋ねるが、探険隊が工場の暗闇の中にいたとき、クレーンが轟々《ごうごう》と動いた。直ぐ灯《あかり》をつけたが、下のスウィッチは外《はず》れていた。いくら其の悪人が器用でも、電気なしで、あのクレーンは動かせないだろうぜ」
「そんなトリックに気がつかない俺ではないよ。その旦那どのは、クレーンを動かすスウィッチと、同じ型の、ソレ乙型《おつがた》スウィッチよ、あれを工場の栗原さんから借りて、暗闇で音をたてずスウィッチの開閉をすることを練習したんだ」
「出鱈目《でたらめ》を云うな」
「出鱈目ではない。では、証拠を出そうかね。その旦那どのは、工場の入口と、スウィッチまでの距離と、その取付けの高さとを正確に測って来て、この舎監居間の前の廊下に、それと同じ遠近《えんきん》に、借りて来たスウィッチをひっかけ、真夜中になると、暗闇の中で、練習をしたのだ。嘘と思うなら、舎監居間の戸口から六間先き、廊下から六尺の高さのところに、二本の釘跡《くぎあと》があるが、その寸法と、工場のスウィッチの位置とを較べて見ねえ。ぴったりと同じことだ。それから二本の釘の距離は、その旦那どのが借りていたスウィッチの二つの孔《あな》の間隔《かんかく》と同じことだが、実はそのスウィッチは製作の際に間違えて、孔の間隔を広くしすぎたので、この廊下の釘の距離も、普通のスウィッチには見られない特別の間隔《かんかく》になっている筈《はず》だ。ここらも、宿命的《しゅくめいてき》な証拠といえば言えるだろう。ウン、ぎゃーッ」
わし[#「わし」に傍点]の手には、お喋《しゃべ》り探偵の脳天《のうてん》を叩き破ったハンマーが、血にまみれて、握られていた。それは、彼氏がお喋りに夢中になっている間に、卓子《テーブル》の蔭から、コッソリ取出したものだった。だが、此《こ》の男を殺してしまったお蔭で、隠忍《いんにん》十年、殺人癖《さつじんへき》から遠去かっていた此《こ》のわし[#「わし」に傍点]の身体には、久しく眠っていた悪血《あくけつ》が、一時に飢《う》えに目覚めて、湧《わ》きあがってきたようだ。わし[#「わし」に傍点]の名か? 「片眼の岩《いわ》」と云やァ、ちっとは人に知られた吾儘者《わがままもの》だなア。
底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1932(昭和7)年8月号
※底本の「c.c.」は「※[#全角CC、1−13−53]」で入力しました。
※「わし達の周《まわ》りには、」の「わし」にのみ、傍点がないのは底本通りです。
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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