包んでしまった。
「いや、御苦労だった」と、わし[#「わし」に傍点]は挨拶《あいさつ》をした。「ところで、もう一つだけ、お前さんに見て貰いたいものがあるんだが」
「あるんなら、早く出しなせえ」
 横瀬は、面倒くさそうに、云った。
「ここには、無いんだ。ちょっと、近所まで附合ってくれ」
「ようがす。ドッコイショ」
 横瀬は、「ひびき」を一本、衣嚢《ポケット》から出して口に銜《くわ》えると、火も点けないで、室内をジロジロと、眺めまわした。
「何を見てるんだ」わし[#「わし」に傍点]は、訊《き》いた。
「マッチは無いのかね」と彼は云った。


     3


 合宿の門を出ると、溝《どぶ》くさい露路《ろじ》に、夕方の、気ぜわしい人の往来《ゆきき》があった。初夏とは云っても、遅《おく》れた梅雨《つゆ》の、湿《しめ》りがトップリ、長坂塀《ながいたべい》に浸《し》みこんで、そこを毎日通っている工場街の人々の心を、いよいよ重くして行った。
 道では、逢う誰彼《だれかれ》が、挨拶をして行った。
 向うから、見覚えのある若い女が、小さい風呂敷包みを抱《かか》えてやってきた。
「お前さん」と其の女は、わし[#「わし」に傍点]の連れを、チラリと睨《にら》みながら、云った。「これから、何処へゆくんだい」
「お前こそ、どこへ行くんだい」
「ふン、見れば判るじゃないか。今夜は、徹夜作業があるんだよ」
「夜業か。まァしっかり、やんねえ」
「お前さんの方は、どこへ行くのさァ」その女は、一歩近よって、云った。
「ちょいと、この仁《じん》と、用達《ようた》しに」
「そうかい、あのネ」女は、口を、わし[#「わし」に傍点]の耳に近づけて、連れに聞かせたくない言葉を囁《ささや》いた。
「……」わし[#「わし」に傍点]は、黙って、肯《うなず》いた。
 女に別れると、後から、附いてくる横瀬がわし[#「わし」に傍点]に声をかけた。
「今の若いひと[#「ひと」に傍点]は、なかなか、美《い》い女ですネ」
「そうかね」
「何て名前です」
「おせい」
「大将の、なにに当るんです」
「馬鹿!」
 露路を二三度、曲った末に、わし[#「わし」に傍点]達は、目的の家の前へ来たのだった。
 わし[#「わし」に傍点]は、雨戸を引かれた、表の格子窓《こうしまど》に近づいて、家の内部の様子を窺《うかが》った。幸《さいわ》いこのところは、露路裏の、そのまた裏になっている袋小路《ふくろこうじ》のこととて、人通りも無く、この怪《あや》しげな振舞《ふるまい》も、人に咎《とが》められることがなかった。とにかく、家は留守と見えて、なんの物音もしなかった。わし[#「わし」に傍点]は、連《つ》れを促《うなが》して、裏手に廻った。
 勝手元の引戸《ひきど》に、家の割には、たいへん頑丈《がんじょう》で大きい錠前《じょうまえ》が、懸《かか》っていた。わし[#「わし」に傍点]は、懐中《ふところ》を探って、一つの鍵をとり出すと、鍵孔《かぎあな》にさしこんで、ぐッとねじった。錠前は、カチャリと、もの高い音をたてて、外れたのだった。
 わし[#「わし」に傍点]は、後を見て、横瀬に、家の中へ入るように、目くばせをした。
 障子《しょうじ》と襖《ふすま》とを、一つ一つ開けて行ったが、果して、誰も居なかった。若い女の体臭《たいしゅう》が、プーンと漂《ただよ》っていた。壁にかけてあるセルの単衣《ひとえ》に、合わせてある桃色の襦袢《じゅばん》の襟《えり》が、重苦しく艶《なま》めいて見えた。
「いいのかね。こう上りこんでいても」
 横瀬は、さすがに、気が引けているらしかった。
「叱《し》ッ――」わし[#「わし」に傍点]は、睨《にら》みつけた。
 わし[#「わし」に傍点]は、逡巡《しゅんじゅん》するところなく、押入をあけた。上の段に入っている蒲団《ふとん》を、静かに下ろすと、その段の上に登った。そして、一番端の天井の板を、ソッと横に滑らせた。そこには、幅一尺ほどの、長方形の、真暗な窖《あなぐら》がポッカリ明いた。そこでわし[#「わし」に傍点]は、両手を差入れて、天井裏を探《さ》ぐったが、思うものは、直ぐ手先に触れた。手文庫《てぶんこ》らしい古ぼけた函《はこ》を一つ抱《かか》え下ろしてきたときには、横瀬は呆気《あっけ》にとられたような顔をしていた。
 わし[#「わし」に傍点]は、急製の薄っぺらな鍵を、紙入の中から取出すと、その手文庫を、何なく開くことに、成功したのだった。その中には、貯金帳や、戸籍謄本《こせきとうほん》らしいものや、黴《かび》の生えた写真や、其他《そのた》二三冊の絵本などが入っていたが、わし[#「わし」に傍点]が横瀬の前へ取出したものは、手文庫の一隅《いちぐう》に立ててあった二〇※[#全角CC、1−13−53]入《いり》の硝子壜《ガラスびん》だった。それには、底の方に、三分の一ばかりの黒い液体が残っていた。
「さァ、こいつだ」わし[#「わし」に傍点]はソッと壜を横瀬に渡した。「最後に、お前さんから、教えて貰いたいのは」
「そうだね、これは――」横瀬は、十|燭《しょく》の電灯の光の下に、小さい薬壜を、ふってみながら、いつまでも、後を云わなかった。
「判らねえのかい」
「うんにゃ、判らねえことも、ねえけれど」
「じゃ、何て薬だい」
「そいつは、云うのを憚《はばか》る――」
「教えねえというのだな」
「仕方が無い。これァ薬屋仲間で、御法度《ごはっと》の薬品なんだ」
「御法度であろうと無かろうと、わし[#「わし」に傍点]は、訊《き》かにゃ、唯《ただ》では置かねえ」
「脅かしっこなしにしましょうぜ、組長さん。そんなら云うが、この薬の働きはねえ、人間の柔い皮膚を浸蝕《しんしょく》する力がある」
「そうか、柔い皮膚を、抉《えぐ》りとるのだな」
「それ以上は、言えねえ」
「ンじゃ、先刻みせた注射器の底に残っていた茶色の附着物《ふちゃくぶつ》は、この薬じゃなかったかい」
「さァ、どうかね。これは元々茶褐色の液体なんだ。ほら、振ってみると、硝子のところに、茶っぽい色が見えるだろう」
「それとも、やっぱりあれは、血のあとか。いや大きに、御苦労だった。こいつは、少ないが、当座《とうざ》のお礼だ」
 そう云って、わし[#「わし」に傍点]は、十円|紙幣《さつ》を、横瀬の手に握らせ、今日のことは、堅く口止《くちど》めだということを、云いきかせたのだった。


     4


 いよいよ、夜は更《ふ》けわたった。
 月のない、真暗な夜だった。風も無い、死んだように寂《さび》しい真夜中《まよなか》だった。
 かねて手筈《てはず》のとおり、工場の門衛番所に、柱時計が十二の濁音《だくおん》を、ボーン、ボーンと鳴り終るころ、組下《くみした》の若者が、十名あまり、集ってきた。わし[#「わし」に傍点]は、一と通りの探険注意を与えると、一行の先頭に立ち、静かに、構内《こうない》を、第九工場に向って、行進を始めたのだった。地上を匍《は》うレールの上には、既に、冷い夜露《よつゆ》が、しっとりと、下りていた。
「電纜工場《ケーブルこうば》は、夜業をやってるぜ」
「満洲へ至急に納めるので、忙しいのじゃ」
 誰かの声に、そっちを見ると、電纜工場だけが、睡り男の心臓のように、生きていた。高い、真黒な大屋根の上へ、鉛《なまり》を鎔《と》かす炉《ろ》の熱火《ねっか》が、赫々《あかあか》と反射していた。赤ともつかず、黄ともつかぬ其《そ》の凄《すさ》まじい色彩は、湯のように沸《たぎ》っている熔融炉《ようゆうろ》の、高温度を、警告しているかのようであった。
「組長さん」組下の源太が云った。「おせいさんは、もう身体は、いいのですかい」
 おせいは、実は、わし[#「わし」に傍点]の妾《めかけ》だった、だが、世の中の妾とは違って、昼間は、この工場で働かせ、わし[#「わし」に傍点]の顔で、|電纜の紙捲《ケーブルペーパーま》きという軽い仕事をやらせ、日給は、女性として最高に近いものを、会社から払わせてあった。夜になると、身粧《みつくろ》いをして、合宿から抜け出してくるわし[#「わし」に傍点]を迎えて、普通の妾となった。
「うん、もういいようだ。今夜も、あの電纜工場《ケーブル》で、稼《かせ》いでいる位だァ」
「うふ。組長は、万事《ばんじ》ぬかりが、ねえな」
「なんだとォ――」わし[#「わし」に傍点]は、ピリピリする神経を、やっとのことで抑《おさ》えつけた。「ちょっと電纜工場《ケーブル》へ寄ってくるから、五分間ほど、ここで待っていて呉《く》れ」
 わし[#「わし」に傍点]は、間もなく出てきた。
 電纜工場を通りすぎると、その先は、文字どおりに、無人郷であった。
 漆黒《しっこく》の夜空の下に、巨大な建物が、黙々《もくもく》として、立ち並んでいた。饐《す》えくさい錆鉄《さびてつ》の匂いが、プーンと鼻を刺戟した。いつとはなしに、一行は、ぴったりと寄り添い、足音を忍ばせて歩いていた。
「うわッ!」
 建物の軒下を伝い歩いていた男が、悲鳴をあげた。皆は、ギョッと、立ち停った。
「な、な、なんだッ」
「工場に、蟇《がま》がえるが出るなんて、知らなかったもんで……」
 きまりわるそうな、低い声だった、
「ドーン」
 二三間先の、鉄扉《てっぴ》が、鈍い音を立てて鳴った。
「ウウ、出たッ!」
「や、喧《やかま》しいやい!」
 わし[#「わし」に傍点]は呶鳴《どな》った。蟇がえるを蹴飛ばした先生は、黙っていた。
 ひイ、ふウ、みッつ!
 やっと、第九工場の、入口が見える。
 ぼッと、丸い懐中電灯の光の輪がぶっつかった。
 錠前には、異常がない。門衛から借りてきた鍵で、それを外《はず》させた。ガチャリと、錠の開いたのが、骨の崩れる音のようだった。
「さァ皆、懐中電灯を消すんだ」わし[#「わし」に傍点]は扉《と》の前に突立って云った。「静かに、中へもぐりこんだら、たとえ、どんな吃驚《びっくり》するようなことが起ろうと、声を立てちゃ、ならねえ。よしかッ。懐中電灯も、わし[#「わし」に傍点]が命令するまでは、どんなことがあっても、点《つ》けるなよッ。折角《せっかく》の化物を、遁《に》がしちまうからな。いいかッ」
 一同は、それぞれ、肯《うなず》いた。
 重い鉄扉を、細目にあけて、ブルブル慄《ふる》えている組下連中を、一人一人、押込んだ。最後にわし[#「わし」に傍点]が入って、扉をソッと閉めた。
 工場《こうば》の中は、油の匂いが、プンプンしていた。そして、鼻をつままれても判らぬほど、絶対暗黒《ぜったいあんこく》であった。何かしら、闇の中から、大きな手が出てきて、喉首《のどくび》をグッと締めつけられるような気味の悪い圧力を感じたのだった。
 誰もが、黙っていた。番号をかけるわけにもゆかない。わし[#「わし」に傍点]は、戸口のところから、手さぐりに、一人、二人と、人間の身体を数《かぞ》えて行った。彼等は、わし[#「わし」に傍点]の手が触《さわ》る度《たび》に、非常に驚愕《きょうがく》している様子であった。そして、申し合わせたように、隣り同士がピタリと身体を寄せ、手を繋《つな》ぎ合わせていた。
「十三人!」たしかに、全員が、入口に近い壁際《かべぎわ》に、鮃《ひらめ》のように、ピッタリ、附着しているのであった。
 それから、時《タイム》が軸の上を、静かに移ってゆくのが、誰にもハッキリと感ぜられた。時の経つのに随《したが》って、一秒また一秒と、恐怖の水準線《すいじゅんせん》が、グイグイと昇ってくるのだった。
 二分、三分、四分、五分――
 夢中で、隣りの男の手を、握りしめた。冷い汗が、腋《わき》の下に滲《にじ》み出して、軈《やが》てタラリと肋骨《あばらぼね》を、駆け下りた。
「キィーッ」
 一同は、はッと、呼吸《いき》をつめた。
「キィーッ、キィーッ」
 呀《あ》ッ、いよいよ、泣きだしたのだ。彼等はそれを鼓膜《こまく》の底に聴いた瞬間、板のように全身を硬直させた。
「キィーッ、キィーッ、ぐうッ、ぐうッ」
 彼等は、見えな
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